政府・日銀は2024年度前半に1000円、5000円、1万円の各紙幣(日本銀行券)を一新させると、麻生太郎(あそう・たろう)財務相が9日に発表した。刷新は04年ぶり。1000円札の図柄は北里柴三郎(きたざと・しばさぶろう)、5000円札は津田梅子(つだ・うめこ)、1万円札は渋沢栄一(しぶさわ・えいいち)になる。新5000円札の肖像となる津田梅子は、津田塾大学の創始者として知られるが、クリスチャンでもある。
1871(明治4)年12月23日正午。冬晴れの横浜港を100人あまりの政治家と留学生を乗せた船が出航した。乗り込んでいるのは、岩倉具視(いわくら・ともみ)、木戸孝允(きど・たかよし)、大久保利通(おおくぼ・としみち)、伊藤博文(いとう・ひろぶみ)といった明治新政府の錚々(そうそう)たる顔ぶれだ。
二百数十年に及ぶ鎖国を解いて、諸外国と渡り合わなければならなくなったが、日本はすっかり世界から取り残されていた。新政府は、廃藩置県をはじめ、地租改正、徴兵制、四民平等、通貨統一、学校・交通・通信の整備など、さまざまな制度の近代化を急ピッチで進めていたところだった。
そこで首脳みずから、西洋の政治、経済、教育、文化などに実際に触れて学ぶとともに、開国以来の不平等条約の改正交渉をするため、米国、ヨーロッパ各国を2年近くかけて回ったのだ。
その乗船者の半数以上は、諸外国に留学する政府高官の子弟だった。そこに振り袖(そで)、稚児(ちご)まげ姿もあどけない5人の少女がいた。往復の旅費も学費も生活費もいっさい国が負担し、さらに年800ドル(今の数百万円)の手当てまで支給されるという好条件で、10年間、米国に派遣される初の女子留学生だ。
いちばん幼かったのは6歳の津田梅子。横浜港を出て間もなく、太平洋上で7歳の誕生日を迎えた。
サンフランシスコに到着したのは、1872(明治5)年1月15日。そして31日、大陸横断鉄道に乗ってワシントンを目指したが、大雪のため、途中で何度も足止めを食いながら、2月29日にようやく目的地に到着した。2カ月あまりの船と列車の旅だった。
最初、駐米日本弁務使館で書記官として働いているチャールズ・ランメンが少女たちを預かってくれることになった。ワシントン郊外に住むランメンには子どもがなく、夫人とふたりきりの生活だった。また、近くに住む夫人の妹や、横浜の宣教師ヘボンの兄も少女たちの面倒を見てくれた。
ところで、このとき米国にいた新島襄(にいじま・じょう)と津田梅子がランメン家で会っていることが、襄の手紙に綴られている。
私の下宿は、日本から来た〔5人の〕少女たち〔留学生〕が今滞在している宿舎に大変近い所にあります。昨日そのうちの二人に会いました。一人〔吉益亮子〕は15歳ぐらいで、もう一人〔津田梅子〕はわずか8歳〔満7歳〕です。後者は現在祖国で有能な役人になっている私の古い学友〔津田仙〕の次女です。彼女はこれまで会ったどの少女よりも可愛いくて才知に富んでいます。
二人ととても楽しい会話をし、共に食事もしました。二人はまだ家族の中で女性たちの話す言葉が理解できないので、私が会いに行くと喜んで会ってくれ、いっぱい質問をあびせます。とても私になつき、気遅れせずになんでも質問します。……
少女たちに……道徳について楽しく教えています。……少しでも彼女たちの役に立てることをとても感謝しています。(『現代語で読む新島襄』)
襄は、梅子の父親の津田仙(つだ・せん)のことを「古い学友」と書いているが、襄は少年のころ、6歳年上の仙とすでに蘭学所で知り合っていたのだ。その後も仙は、米国にいる襄と日本の親族との間の手紙のやりとりの仲立ちをしていた。幕府に知られぬよう、米国から届いた手紙を宣教師バラに託されていたのだ。また、仙はのちにクリスチャンになり、梅子の弟、元親と次郎を同志社で学ばせている。
キリシタン禁令の高札が撤去された1873年、梅子は受洗している。まだ8歳だったが、教会学校にも通っていた梅子みずから洗礼を希望したのだった。
ホストファミリーのランメンたちは、政府の言いつけを守り、決して梅子に信仰を勧めるようなことはなかったが、梅子たっての申し出を世話役の森有礼(もり・ありのり)に伝えると、キリスト教に理解のあった森も了承した。
最初は幼児洗礼と考えていた牧師も、梅子が非常に自覚的な信仰告白をするのに驚き、成人と同じ洗礼を授けたという。
1882(明治15)年11月21日のよく晴れた朝、梅子を乗せた船は横浜港に着いた。梅子は17歳になっていた。
梅子は、先の11年間の留学では高校までしか卒業できなかったが、再度米国に渡り、ぜひとも大学でも学ぼうと考えていた。米国にいる知り合いに相談していたが、やがてプリンマーカレッジの学長が学費の免除を承諾してくれ、当時勤めていた華族女学校校長からも留学の許可を得ることができたため、1889(明治22)年、梅子は7年ぶりに米国の土を踏んだ。
そして3年後、日本に戻ってきた梅子は、華族女学校、さらに明治女学校、女子高等師範学校でも教えるようになる。
やがて高等女学校令、私立学校令が発布されて環境が整ったと判断した梅子は、1900(明治33)年、満を持して女子英学塾(後の津田塾大学)を設立する。これまでのような、上流階級の子女だけを相手にした、良妻賢母を育てるための日本的な女学校ではなく、一般にも開放された、学問的なレベルの高い、本格的な女学校である。
最初は小さな借家で十数人の生徒から始めたが、3年後には50人以上に増えて、新しい校地に引っ越し、その後も順調に学校は成長していった。
10歳前後の少女たちが米国に留学し、そこで蒔(ま)かれた種の結実がこの女子英学塾だ。横浜港からの船出から30年が経っていた。
1929年、梅子は64歳で亡くなっている。