「わたしは祈り助けを求め叫んだが、助けはこなかった。」という答えの反論は「助けはきた」である。助けはそこにあった。助けは身近にあった。多分、あなたは全く違ったものを求めていたのだろう。神はあなたの人生を健全に変え、永遠のための完全性に変える助けをもたらしてくださった。さらに、その助けはあなたの人生を変えるばかりでなく、国々や社会や文化も変えてしまう。何故、助けが来てくれなかったのかを尋ねる代わりに、祈る人は自分の人生、歴史、指導者たち、民族の中で実際起こっていることを注意深く見つめ、これが神が提供する助けなのだろうかと尋ねることを学ぶのである。わたしは「このこと」を「助け」という言葉で一度も考えたことはなかったが、これが助けなのかもしれない。祈りは新聞を読むよりも遥かに現実を正確に読む方法をわたしたちに与えてくれる。田舎司祭のベルナノスは「考えて見よ!」と叫ぶ。「言葉は肉体となった。当時の新聞記者の誰一人も知らなかったことが起ったのだ。」(『田舎牧師の日記』)
神よ! わたしはあなたを呼び求める
答えを確信しているからだ。
だから、― 答えてください!
耳を傾けてください!
注意深く聞いてください!
家の柵に慈しみの落書きを描いてください。
近所のいじめっ子から
あなたに直接逃げてきている 恐怖に怯えている
子どもたちを受け容れてください。
― 詩編17編6~7節