全てのクリスチャンは何らかの形で、わたしたちがそれに対する適切な語彙(ごい)があろうとなかろうとも、聖なる生活のビジネスを営んでいる。しかし、それが何で構成しているかを正確に知ることは難しい。わたしたちは、何を見たらいいのか分からなくなってしまった。過去100年の間かそれ以上の間、生き方の権威を自認する人々は社会的ユートピア主義か心理学的な充足か、あるいは両方か、スリリングなジエットコースターのような展望をもたらしてきた。その結果、わたしたちはさらに悪くなってきている。改善してきている唯一のことは、もし、言葉にすれば、わたしたちがより早く動き、より多く消費するという能力だけである。
神についてどんな言葉に無関心な夫たちが、あなたの聖なる美しさの生き方に魅了されるだろう。……神に喜ばれる、あなたがたの内面的な美しさと穏やかさと優雅な美しさとを育みなさい。昔の聖なる婦人たちもそのように神の御前に美しかったのだ。
―― ペトロの手紙(一)3章1節b、4~5節
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。