注解書を読むことは(聖書を読むことが楽しみだと考える人々の間でだが)、わたしにとって、地元のバーでフットボールファンが次のことをしながら集うことと常に似ているように思える。彼らは丁度観た試合を一つひとつ競技を再演し、観戦や意見で口論したり(ことによると喧嘩になったりする)、談話に選手の噂話を加えたりする。このような酔っぱらった会話で見られる知識のレベルは相当なものである。ファンたちは長い間試合を観てきている。彼らにとっては選手は馴染み深い名前なのだ。彼らはフットボールの規則の細則をも知っている。彼らは競技場でのあらゆる微妙な違いなどを引き合いに出すのである。彼らは試合がどうなるかに非常に関心がある。彼らのいつ終わるとも知れないコメントは彼らが深い関心があるという証拠である。彼らと同じように、わたしが注解書を楽しく味わうのは、ただ情報を得るだけではなく、博学な友人たちや、経験豊かな友人たちと、聖書の原文を精査し、観察し、問いながら対話をすることなのだ。創世記からヨハネの黙示録に壮大に広がっているこの聖書の構想に没頭すると、わたしたち誰もかれもを救う救い主の臨在に捕らえられる。多くのことに気づき、多くのことを話すことが出来る。
わたしは箴言の一口のごちそうを咀嚼(そしゃく)している。
わたしはあなたに甘い昔の真理を教える。
わたしたちが父から聞いた物語と
わたしたちが母の膝元で学んだ助言を。
――詩編78編2~3節
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。