12月12日「現実逃避の喜び」

 わたしたちは「殺人事件」のミステリーを語り続けてみたが、それは長続きしなかった。 ―― 確か、数週間程度は続いたと思うのだ、が。ともかく、その結果として、探偵小説に書かれている「現実逃避の喜び」ということが何であるか、わたしは分かるようになってきた。わたしが直ぐに分かったことは「現実逃避の喜び」が、多くの学者や牧師たちや、神学者たちによって愛好されていることであることが分かってきた。ガブリエル・マルセルが何時も強調していたことを思い出す。つまり「人生とは解決すべき問題であるか、あるいは、自分が入り込むミステリー小説として捉えるのか、自分の人生をどう捉えるべきなのか、わたしたちは自分の人生観について、二者択一を迫られている」とマルセルは言っていた。

 ここで疑問がわく。男性でも女性でも、多くの人々が「解決すべき問題」、あるいは「ミステリー小説を読むようなもの」として自分の人生を見ているのに、時が経つにつれて道を踏み外し、いつしか「ミステリー小説を読むようなもの」として自分の人生を見るようになるのはなぜなのだろうか。つまり、人生とは「いつも最後のページになると解決されてしまう問題」に過ぎないと考えるのはなぜなのだろうか。もしかすると、一つの理由は「善と悪」ということにあるのかも知れない。余りにもしばしば、曖昧(あいまい)さに溢れている日々の生活の中で、「善と悪」は「はっきりしないもの」となっている。そうしたわたしたちの生活の中に、「善と悪」とをはっきりと描き出すものとして、殺人事件を扱うミステリー小説があるのだから。詐欺師たちの大風呂敷に包まれて息切れしているわたしたち、相対主義と主観主義によって息切れしているわたしたちは、殺人事件を主題とするミステリー小説の中で、道徳的・知的に「一息つく」場所を見出しているのだ。
 

イエスは言った。
わたしたちは秘密にしているのではない。
わたしたちは彼らに告げている。
わたしたちは何も隠していない。
わたしたちが全てを公にしているのだ。
―― ルカによる福音書8章17節

 
 
   *引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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