11月17日「恋人たちは言葉を悦び味わう」

 「釈義」とは「学者ぶった行為」とは程遠い。「釈義」とは「愛の業」である。わたしたちに語ってくる方がいて、その方は自分の語る言葉を正しく受け取って欲しいと思っている。そのような人に、十分な愛をもって向き合うことが「釈義」である。その言葉を正しく取り扱うために必要なあらゆることを行うこと、そのような姿勢で御言葉に向き合うことが「釈義」である。神が告げることを注意深く聴き、立ち止まって、神を深く愛することが「釈義」である。神はわたしたちに聖書を与えてくださった。聖書は神の御言葉による、わたしたちへのプレゼントなのである。「神がわたしたちに語ること」と「神が語る方法」との両方を愛することが、「神を愛する」ことの意味である。それで、神を愛する人は自分の持ち時間と注意力を目の前のテキストへと投入することになる。 ―― 「句読点やセミコロン」の一つひとつを大切にし、「簡単に説明できない前置詞」と文章を味わい、「この名詞は何故ここにあるのか」という驚きに喜びを感じる。恋人たちは、チラっと見て、「メッセージ」を掴み、「意味」を捉え、そして、友人のところに走って自分の気持ちをゴシップすることはしない。恋人たちは言葉を悦び味わう。書いてあることのニュアンス一つひとつを読み取り味わう。
 

パウロは集会所に行った。町に着くと、パウロはいつもそうしていたのだ。パウロは三回の安息日にわたって聖書から彼らに説教をした。集会所に集まった人々が、自分の人生を通して学んだことについて理解できるように、パウロは聖書を開いたのだった……
 ―― 使徒言行録17章2~3a節

*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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