11月11日「歩行者の視点」

 クリスチャンたちは読書をする。クリスチャンにとって、読書は根本的で身につけるべき技能である。読書が出来ない人がクリスチャンになれば、わたしたちはそのような男性や女性の所へ行き読書をするように勧め教える。それはもちろん、神がイエスにおいてご自身を啓示され、言葉は肉体となったからである。わたしたちには、この啓示に対して66の証言者がいる。彼らは自分の証を紙の上にインクで書き記した。これらの証が収集されて聖なる書の一冊としてまとめられた。それが聖なる書、聖書である。聖書は、イエスにおける神の啓示への、わたしたちの根源的で、公認された(よって権威のある)アクセスである。クリスチャンは神がどういうお方なのか、神はどう働くのかを知りたいと願う。自分が神の似姿に造られたとはどういう意味なのか、御子によって救われるとはどういう意味なのかを知りたいと願う。聖霊に満たされるとはどういう意味なのかなどを、知りたいと願う。そのために、わたしたちは聖書を読むのである。

以上のことが、クリスチャンの「読書」である。クリスチャンにとって、それは中心的なことであり、付け足しではない。ある人々は、神の啓示を知るために、これ以外の方法を選ぶという人もいるだろう。しかし、わたしたちはそのような人々に「否」という。わたしたちは「この方法でなければ駄目だ」という。例えば、神体験を得るために「恍惚(こうこつ)状態」になっていくことが大切だという人もいる。しかし、わたしたちはそれに「否」という。ヘラクレスがしたような大きな事業に取り掛かり、道徳的な英雄であることを示し、わたしたちの内に秘められた神がかりの力を見出すことが大切だという人もいる。そうしたことに、わたしたちは「否」という。山にある洞穴に引きこもり、思考・感情・欲望のすべて、自分のすべてを空にして、「存在」に肉薄することを妨げるすべてを手放すことが大事だという人もいる。それに対しても、わたしたちは「否」という。わたしたちクリスチャンは度々このような打ち上げ花火ような霊的事象に感動してしまう。そして度々「おぉ、あぁ」と歓声を上げる。わたしたちより賢明な指導者たちはこのようなことを奨励はしない。わたしたちの取るべき道は、魅惑的なスピリチュアリティーとは正反対の方向を向いている。わたしたちの方法は「歩く」ことである。文字通り「歩行者」である。わたしたちは片方の足を、他方の足の前に出し、一歩一歩と置くのである。そして、一歩一歩、イエスに従うのである。イエスがどういう方なのかを知るために、イエスがどこへ行かれるかを知るために、イエスがどのような足取りで歩くのかを知るために、わたしたちは一冊の本、すなわち「聖書」を入手し、それを読むのである。
 

これはわたしたちの間で起こった御言葉の偉大なる収穫と歴史の物語である。この物語は、人生そのものでこの御言葉に仕えている第一目撃者が伝承した報告を用いている。
 ―― ルカによる福音書1章1~2節

*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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