10月19日「公の礼拝」  

 神は成長する色々な方法を与えている。たとえば、祈りと聖書、沈黙と孤独、苦悩と奉仕 ―― その中で巨大で根本的なものこそ、公の礼拝である。霊的成長は孤立から生まれない。霊的成長は、クリスチャンと神との間で起こるプライベートな事柄ではない。隣人と自分自身も両方とも愛してくださる神の御前に、わたしたちは礼拝を通して、共に立つのである。他のどのような機会にも優って、礼拝を通して、わたしたちは自分自身の心を意識的に開くことが出来るようになる。そうして「神の御業」と「隣人のニーズ」の両方に、わたしたちは開かれる。その両方が、キリストの満ち満ちた高みへと成長するよう、わたしたちを促す。このキリストは「神であり、同時にまた人である」という方である。つまり、キリストはわたしたちのために「そのような方」でいますということだ。子どもが成長する時に逃れ場や食べ物が不可欠なように、いつもの礼拝・信仰に溢れた礼拝は、クリスチャンが成長するために、必要不可欠なものである。成長期の子どもには十分な食物と安全な場所が必要である。礼拝は光であり空気である。霊的な成長は公の開かれた礼拝で起こる。
 

彼らは食事をした後、
日毎の礼拝を神殿で守っていた。
その食卓はそれぞれ神を賛美するにふさわしく、
お祝いの席となり、
活き活きとして喜びにあふれていた。
 ―― 使徒言行録2章46~47節

*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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