10月12日「わたしたちの罪について祈る」

 神はわたしたちをよい者として創造してくださった。これは基本的な事実である(詩編8編)。このことと並んで、わたしたちが過ちを犯してしまったということは、等しく根本的な事実である。わたしたちは罪について祈る。それは、自分自身が何者であるかという真理を知るためである。また、わたしたちは、神が罪人をどう扱うかを見出すために、わたしたちの罪について祈る。わたしたちが経験する罪とは、つまるところ何なのだろうか。それは結局「いくつかの悪事を行ったこと」ではない。そうではなく「悪い存在である」ということである。わたしたちの存在そのものの基本的な状態に問題があるのだ。間違ってやってしまった一時的過失という問題ではない。罪について祈ることは、もう二度と罪を犯さないと決意することではない。罪について祈るとは、罪人であるわたしたちと共に神が何を決意したのかを見出すことである。
 

わたしの罪責をこすり落とし給え
あなたの洗濯機で
わたしのもろもろの罪をうるかし流し給え
自分がどんな悪いものであったか
わたしは知っている。
わたしの罪が 
わたしをにらみつけている。
 ―― 詩編51編2~3節

*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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