わたしたちほとんどは劣等感を抱いて成長する。幾人かは他の人より優れているとカモフラージュ出来るが、それでも劣等感はそこに存在する。わたしたちは、人生の中で最も重要な人々(両親、教師、近所の年上の人々)と比較すると、わたしたちは最も発育する期間に、小さく、知識も少なく、弱く、経験も少ないということが、一つの理由なのだ。わたしたちの周りには色々な面で、わたしよりも優秀な人が常にいた。そのような感情は成熟するにつれ失われるが、完全になくなることは決してない。わたしたちは、いつも自己否定に弱い。わたしには本当に価値がないのだろうか? わたしが実際生きていても、誰かが心配してくれるだろうか? もし、わたしが、明日消えてしまうならば、全てが正常になるまでどれ程の時間を要するのだろうか? 一週間、一か月、あるいは一年だろうか? わたしたちは周りの人々に対して、色々な仕方で、絶対に必要な人物になろうと努力する。だが、その努力は説得力がない。
わたしたちが、そのように生きる時、自由は体験できない。無能さという感情がわたしたちを虜にする。たとえ、わたしたちが、いかに「あなたは自由である」と言われても価値があると思わなければ、自分の賜物を展開することにおいて、自分の強さを述べる意欲が出ないだろう。自分の賜物を展開することにおいて、引き出す自信をもてないし、その日その日を楽しんで過ごせると感じることもないだろう。
それは、あたかもわたしたちが優れていて、他の人が劣っていると、お互いに比べるという意味ではない。わたしたちには、自分の人生に関して途方もない程に興味深いものがある。一人ひとり独創的なものである。
―― ガラテヤの信徒への手紙5章26節
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。