同じ仕事を続けながら、あるいは毎日変わらない結婚生活を維持しながら、また、同じことを専心打ち込み、そうしていつか駄目になっていく ―― そんな人を、わたしたちはよく知っている。そういう人たちは実に根気強い人で、長年にわたって同じことを続けている。でも、わたしたちはそのことに特別感心したりはしない。むしろ、そういう人を「お気の毒に」と感じる。マンネリ化して面白味も失い、新しい一歩を踏み出そうとする活力も失った人々だと考えてしまう。
だが、わたしたちはエレミヤを気の毒な人とは考えない。エレミヤはマンネリ化はしなかった。エレミヤは目標を見定め、それに向かって献身したのだ。一つの例を示したい。エレミヤは何の根拠もないことを示し続けたのだ。それは実に、退屈で骨の折れるものだった。わたしたちがよく知っている通り、エレミヤは、彼が23年間の苦労の後でもなお、想像力が若い時よりさらに活き活きとし、気迫も若い時よりもさらに強靭(きょうじん)なものとなっていた。彼は漫然と時を過ごしていたのではない。預言者として生きる冒険の人生において、毎日が新しいエピソードの連続だった。一日一日、エレミヤは人生の時を重ね、凄まじい不屈さと驚くべきスタミナを示していった。
だから、わたしたちは諦めない。どうして諦められようか! たとえ、わたしたちの外側は、いつも衰えているように見えるかもしれない。それでもわたしたちの内側で、神が日々新しい人生を作り出している。そうして神が展開する。その恵みなしに過ぎ去る日は、一日たりとも存在しないのだ。
―― コリントの信徒への手紙(二)4章16節
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。