7月1日「恵み……平和」

 次の14日間は自由というテーマの論考である

 自由を獲得するには、ある種の果敢な勇気を必要とする。自由に生きるとは奮起して生きることなのだ。自由に生きることは相当な労力を要するし、時には痛みを伴う。もし、安全確保を最優先したいならば、自由に生きようとは願わないだろう。エリック・フロムの著書に「自由からの逃避」がある。この本は自由を与えられた人々が自由から逃げようとする様子を丁寧に記している。それによると、全体主義政府、全体主義的な慣例、全体主義的な感情などによって、人々は全体主義への中毒になり「安定した奴隷」として生き続けることを好むようになる。
 
どの時代にあっても、巨大な「ひとかたまり」となる時、群集心理が働き分別を失い混乱してしまう。社会学的調査が示す統計資料が、それを完全に示している。それでも、あらゆる世代にわたって、自由において知性と勇気をもって生きているのは、ごく僅かな人々だけなのだ。 そうした人々にとって、ガラテヤの信徒への手紙が、しばしば自由な人生の契機となっていた。いくつもの危機が歴史の中で、クリスチャンの小さな群れによって、この手紙は読まれたのだ。そして新しいうねりが生み出された。そのうねりは、衰退に向かう流れを変えて新しい生き方を波動を生み出すほどに、力強いものとなった。自分たちが恐れや抑圧の犠牲となっていると感じる人々を自由にする手段として、この手紙は機能し続けたのだ。不安や心配によって、多くの人々が麻痺し続けられている時、この手紙は人々を力強い希望へと覚醒させてきた。「人生とはなんであるか」という問いを巡って、昏迷・論争・不確かさが広がっている。その中で、「心を開いて素晴らしく生きること」とは何であるか、正確に教え納得させてきたのが、この手紙である。広範囲にわたる混迷、論争や人生に対する不確実性がある時、心豊かで素晴らしく生きることを人々に正確に教え納得させたのも、この手紙だ。自由に生きるようにと神がわたしたちに用意してくださった救いへの入り口がどこにあるかを正確に示したのも、この手紙である。
 
この手紙の最初には、パウロの挨拶がある。わたしたちはそこに、期待すべきものが先取りして述べられていることを見出す。それは「恵み」と「平和」だ。恵み! 命は賜物なのだ。平和! 命に不足はない。「恵み」と「平和」という二つの言葉は「自由に生きよ」という宣言である。わたしたちは根本的に、そして最終的に、自由に生きる存在だと、この二つの言葉が語る。人生は神の恵みとして与えられるもの。わたしたちが人生を、廃墟となった文化や家庭から救い出すというのではない。人生は一つの完全なものなのだ。その中へわたしたちは成長していく。人生は断片ではない。走りながら人生をかき集める、そのようなものは、人生ではない。

それで、わたしが送る挨拶は次の二つの偉大な言葉である ― 「恵み」と「平和」だ!
この偉大な言葉について、わたしたちはその意味を知っている。
イエス・キリストが、
わたしたちが住むこの悪の世界から
  わたしたちを救い出してくださったので、
  わたしたちはそれを知っている。
キリストはご自身をわたしたちの罪のための
  犠牲としてささげてくださった。
そのことによって、わたしたちは救い出された。
神のご計画とは、わたしたち皆が、
  この救いを味わうことなのだ。
―― ガラテヤの信徒への手紙1章3~4節

*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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