6月25日「恵みの手段」

 ここで、キルケゴールの洞察が助けとなる。つまり「大惨事が恵みの手段となり得る」ということ、を。「大惨事」は神によって用いられ、一つの手段になることがある。「大惨事」を通して、あらゆる種類の「魅力的に見えるもの」に晒(さら)されながら漂流し続ける状況から脱出することが出来る。「大惨事の恵み」によって、人々はしばしば我に返り、自分の前にあるものを、あたかも初めて見るようになる。「大惨事」はまるで大嵐のように、理論イデオロギーといった「物ごとを抽象化する覆い」を吹き飛ばすことが出来る。そうしてわたしたちは、ものごとを主体的に見ることが可能となる。

今や、わたしは喜んでいる。 ―― あなたがたが動転しているからではない。そうではなく、物ごとがひっくり返るその中で、あなたがたが揉まれたことを、わたしは喜んでいる。苦悩によって、あなたを神へ向かわせるのであって、神のもとから追い払うことではない。結果はすべては与えられ、何も失われなかった。
―― コリントの信徒へ手紙(二)7章9節

*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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