罪と「わたしたちの内側にある悪」とは違う。罪とは、破壊的な混乱である。わたしたちはその混乱の中で、神と調和しない自分の悲惨に気づくのである。ここに人間の窮境がある。この混乱は、わたしたちの周囲や内側にもある。それなにの、わたしたちはその混乱をむしろ忘却しようとする。この混乱に心を向けることは神に心を向けることとなる。それはつまり「精力的に、活発に、愛をもって、わたしたちは生きなければならない」ということに心を向けること。そのように生きたい ―― そう願う瞬間がある。しかし、その瞬間は長続きしない。わたしたちはむしろゴルフをしたい。病院でもう一つの検査を受けたい。大学で別の課程を修了したい。わたしたちは神との関りを差し置いて、自分の人生を向上させる道を求めて探し続ける。しかし、わたしたちはそれは達成できない。
祈る時、わたしたちは生ける神の臨在の中に自分自身を委ねている。詩編を読んで祈る時、わたしたちは自分の生活一コマ一コマの全て、自分を巡る歴史の全てを通して祈る。その時に、罪の中に複雑に絡み合って形成される、わたしたちの土台が全て覆われることになる。わたしたちはその時、多彩な素晴らしい語彙辞典を入手する。その辞典を用いて、神からの離反という人類史的な悲惨に巻き込まれた自分自身について、詳細に、理解することが出来る。つまり「謀反者」「逸脱者」「無法者」「悪人」「犯罪者」「嘘つき」「馬鹿者」「退廃者」「不正な者」といった言葉の意味を、詩編を読み祈ることによって明確に理解できるようになる。詩編には「七つの嘆きの歌」と呼ばれるものがある。(詩編6編、32編、38編、51編、102編、130編、143編)。それは、極めて有名な詩編である。神との不調に陥ったわたしたちの窮境を、これらの詩編は明確に示してくれる。わたしたちは実際ひどく忘れっぽいところがある。そのために、わたしたちの罪の細かな部分は、しばしば見えなくなる。しかし、この詩編の一つだけでも手にすれば、そうしたことから守られ、わたしたちはしっかりと自分の窮境を理解できるだろう。
これらすべてに 疲れ果て
寝床は涙で濡れている。
四十日と四十夜
寝床は涙で濡れきって
びしょびしょになり
枕もシーツも
涙に浸された。
―― 詩編6編7節
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。