6月9日「サクラメントの達人」

 詩編が用いる隠喩は、キリストの受肉を媒介して、わたしたちの生活をサクラメンタルなものにする。「サクラメンタルなもの」とは何を意味するのだろうか。それはつまり、「神とつながるもの」ということである。全てのことが「サクラメンタルなもの」となる。全ての物も人も「神とつながるもの」となる。イエスは「サクラメントの達人」だった。イエスは身近にある物を用いて、わたしたちに神を認識させ、わたしたちを神に応答する者としてくださる。イエスが手元にあるものを用い始めると直ぐに、その物が馴染のないものではなく、誰から見てもありきたりなものだったことは明らかである。そして「神によって創造された当たり前のもの」が「神に出会う手段」となる。例えば「カナにあった水瓶」「エルサレムの風の音」「ガリラヤ湖のさざ波」「ベトザタの池での麻痺患者のベッド」「ラザロの亡骸」など一つ一つが「神に出会う手段」となったのだ。そう言えばC・S・ルイスはこう述べる。

「神よりももっと霊的になろうとする試みは無駄な努力である。神は人間を決して『純粋な霊的な被造物』として考えていない。だから、イエスはわたしたちに新しい命に生きるために『パン』や『ワイン』のような『物質的なもの』を用いたのだ。わたしたちは『これは霊的でなく未熟だ』と考えるかも知れない。神はそうは考えない。『食べる』を考案したのは神である。神は物質を好んだ。神はそれらを考案したのだ。」(C・S・ルイス著 Mere Christianity)

彼らは自分たちが見ていることを
  信じることができなかった。
彼らにはそれはすごすぎた。
それは余りにもよいものに見えた。
本当過ぎて、理解できず「こんなものはくだらない」そんな感じで見誤った。
イエスはそこで言われた。
「ここで何か 食べるものがあるか」と。
彼は自分たちが作った料理の残り物を
  一切れ差し出すと
イエスは彼らの目の前でそれを食べた。
―― ルカによる福音書24章41~42節

*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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