「自分には叡智(えいち)が足りない」と思う時があると思う。その時、その理由を間違えてはいけない。それは「神の言葉に落丁があるから」ではない。それは「今手元にある神の言葉のページのどこかを見落としたから」である。というのも、その時には「手元にあるのとは別の本」が必要なのではない。「手元にあるこの神の言葉にもっと注意を払うこと」が必要なのである。「もっと多くの知識」が必要なのではない。
「イエス・キリストにおいて既に啓示されていることを見るために、洞察力の向上」が必要なのである。
まったくもって 間違いない!
実に神こそ 素晴らしい
善人に よい心根を 宿した人に
いつも必ず よいことが
神のみ手から 溢れ出る。
さもありながら 危うくも
それを見過ごす 危うさに
わたしは瀕していた。
見当違いな方角を わたしは見つめていたのだ。
―― 詩編73編1~3節a
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。