神と口論することは古くからの聖書的な習わしである。モーセ、ヨブ、ダビデ、ペテロは全員神との口論の達人である。宣教に携わる人々の多くが神と口論した。わたしたちはこのことを何度も経験している。というのも、わたしたちが神と向き合う時に、ほとんどの場合、神はわたしたちの期待した通りには動かない。
ヨナは神と口論した。ヨナは神の恵みに驚いたからである。ヨナは面食らった。神とは付き合い切れないと思ったのだ。ヨナが「きっと神はこうするだろう」と思っていたことと、実際、神が行ったことは、根本的に違っていたからだ。そのため、ヨナは拗ねた。ヨナは怒ったのだ。「怒る」という言葉が最後の章だけで6回も記されている。
どうするべきか
神は忘れてしまわれた。
わたしのことを 置き去りに
すたすた どこかへ 立ち去った。
わたしはまさにそのように
疑い怒り悲しんだ。
「こんなものだな 運がない」
わたしはひとり つぶやいた。
「仕事をほっておき どこかへ
頼りにしていたこの時に
神は立ち去り 姿を消した」
―― 詩編77編9~10節
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。