聖書は「苦難を説明すること」や「苦難を排除すること」を啓示するものではない。聖書はむしろ、神が苦しんでいる人の人生に入り込み、苦しみを受け入れ、共有していることを示すのである。聖書は「神の講義」ではない。不幸な苦しみを受けている人々に「だから言ったじゃないか。ここと、これが、あなたの間違った所。今あなたは、その報いを受けているんだ」と指摘するものでもない。また、聖書は「段階的に苦しみを消去するべく神が組み立てた五か年計画のプログラム」でもない。(あるいは、「神の摂理」と呼ばれるより壮大な領域におけるドラマでもない。)聖書には「エジプトのくびき」から始まり「荒野の40年」や「王のいない無政府状態」や「アッシリア帝国軍による包囲」や「バビロン捕囚」や「ローマ軍による十字架刑」や「ネロ皇帝やドミティアヌス皇帝の大殺戮」があったと述べている。そこに「大きな苦難から小さな苦難への旅路」が描かれるわけではない。苦しみは「ここにある」のである。そして、苦しむ者がいるところに、神もおられる。
実に、彼はわたしたちの悲嘆そのものを背負った。
彼はわたしたちの悲しみを担ってくださった。
(イザヤ書53章4節)
しかし、神は、わたしたちのために、これほどまでに愛をお示しくださった。そのために、御子はご自身の命をささげ、死んでくださった ―― 神にとって、わたしたちは何の役にも立たない者であったのに。
―― ローマの信徒への手紙5章8節
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。