「シナイ山の出来事」は、二つの車輪をつなぐ車軸のようなものである。二つの車軸はそれぞれ「基本的な現実」である。第一は、「神が行う全てのことに、わたしが巻き込まれている」という現実である。(神学用語では、それを「選び」という)。第二は、「わたしが行う全てのことが、それゆえに重要である」という現実である。(神学用語では、それを「契約」という)。
「選び」はわたしに及んでいる。それで、わたしは結実を見るのだ。「選び」のゆえに、わたしの個性は唯一無比なものとなる。「契約」のゆえに、わたしは責任を伴う関係性の中にいることになる。「選び」があるので、「神がわたしのために何かを計画しておられる」ことが分かる。「契約」があるので、「わたしが行うことが神の計画にどのように適合するか」が分かるのだ。
地球の基を築く、そのずっと前から、
神はわたしたちを御心に覚え、
神の愛を注ぐ対象として定めた。
それは、神の愛によって
全き者、聖なる者とするためだった。
―― エフェソの信徒への手紙1章4節
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。