いずれにせよ、わたしたちは「完全であること」と「正義が実現すること」をどんなことがあっても渇望し続けている。「詐欺」とか「間抜けごと」ばかりを毎日差し出され、ほとほと嫌気がさしてくると、わたしたちはつい「聖書には期待できる。聖書はきっと素晴らしい人物が描かれている」と思うようになる。そんな時、正真正銘な男性とか正真正銘の人生とは一体どういう意味なのだろうか? 成熟した本物の人間が日常の中にいるとすれば、それはどんな姿をしているのだろうか?
このような問題意識で聖書に目を向ける時に、わたしたちは驚かされることがある。何よりもまず驚かされるのは、聖書の登場人物たちの誰一人も「英雄」ではないということだ。「素晴らしい道徳性」を示す例は見当たらない。「完全無欠な高徳の士」のモデルも見当たらない。実に残念なことである。このことで、いつも初めて聖書を読む人々はショックを受けてしまう。アブラハムは嘘をつく。ヤコブは騙(だま)す。モーセは殺人を犯し、不平不満を言う。ダビデは姦淫(かんいん)を行う。ペトロはキリストに暴言を吐く。
聖書を読み続けるわたしたちは、次第に聖書の意図、そして信仰をもって生涯を送った重要人物たちは、わたしたちと同じく『土』から形作られたのだと一貫性のある計画をうすうすと気づき始める。
聖書は人間についての情報は控えめでありながら、神についての情報は惜しみなく提供していることを発見する。わたしたちが「英雄を崇拝したい」という欲望を満たすことを聖書は拒否する。わたしたちには「ファンクラブに入りたい」という青春のような欲望がある。聖書はそのようなことに迎合することもしない。その理由は十分に明らかである。「ファンクラブ」は「また聞きで二流の人生」へとわたしたちを引き込んでしまうからだ。「また聞きで二流の人生」とはどういうことだろうか。わたしたちは写真や記念品や有名人のサインを手にし、あるいは歴史上の偉人の足跡をたどる観光旅行に出かけながら、つい「○○さんの人生は、わたしの人生よりも、ずっと波乱万丈で魅惑的だった」と考え、その誰かに心を奪われてしまい、そしてわたしたちは「また聞きで二流の人生」へと引き込まれることになる。平凡な自分自身から目を背けて「誰か」を探し、そのエキゾチックな尻馬に乗って、どこかへとさまよい出てしまう ―― そのような危険な尻馬に乗ることで、自分の平凡な存在からの気晴らしを見つけてしまう。
……わたしがそれを聞き、そして見た。そしてわたしは、わたしの前にすべてを語ってくれた天使の足元に土下座をし、その天使を礼拝しようとした。天使はそれを拒否して言った。「そんなことをしてはいけません。あなたや、あなたの仲間、預言者たち、そしてこの神の言葉を守る全ての人たちと同じく、わたしは一人の僕にすぎないのだ。さあ、神のみを礼拝せよ!」
―― ヨハネの黙示録22章8b~9節