何かをしなければならない時、わたしたちが必要なのは神である。長い間、ずるずるといつまでも、人々はそれに気づかず過ごしてしまう。「お金」「セックス」「仕事」「子どもたち」「両親」「政治的信念」「スポーツ競技の勝敗」ということに関わって行かなければと思い込んでいる。確かに、そうしたことが一つでもあれば、あるいはそのいくつかを組み合わせると、人々はそれに夢中になることが出来る。暫(しばら)くの間であれば、人はそこに目的や意味を見つけることが出来る。「人間が求めるべきものはこれだ」という気持ちになる。だが、緩やかな形で、徐々に倦怠感(けんたいかん)が起こる。あるいは大惨事が起こる。あるいは突然、全てが無意味であるという気持ちに襲われる。それで、さらに大きなものを望むようになる。そうして人は神を求める。人は時に、生きる意味を探し、自分の指針を求め、様々に問い、自分の言葉を吟味することがある。わたしたちは「神」より劣るものや「神」以外のものへと逸(そ)らされてはいけない。
「『神のリアリティー』あるいは『神の主導権』あるいは『神からの備え』というものがあるのだから、そうしたものに、あなたの身を浸しなさい。
『好機を逃すのではないか』と心配するな。
あなたがたの毎日の心配事は、すべて完全に解決して行く ―― そのことに、あなたは気づくことだろう。』
―― マタイによる福音書6章33節