祈るように促されることによって、わたしたちは祈りを学ぶのである。一般に、祈りとは「自分の必要にかられて」あるいは「自分自身の意志に従って」と考えられている。神を慕い求める切なる思いを経験して、わたしたちは祈り始める。神への感謝の気持ちが湧き上がり、わたしたちは祈り始める。神の御前に、トラック一台分の罪に押しつぶされる自分の姿を見出すと、わたしたちは祈り始める。しかし、聖礼典の中では、事情は異なる。聖礼典の中では、わたしたちが主導権を握ることはない。「何かを経験し、そして祈りが促される」ということにはならない。誰か前に立って、そして「祈りましょう」と呼びかける。わたしたちの側で始めるのではない。誰か他の人が祈り始めてから、その後に続いて、あるいはその祈りの歩調に合わせて、わたしたちは祈りへと引き込まれて行くのである。その時、わたしたちの自我はもはや祈りの最前線や中心ではない。
これはとても大切なことである。というのも、祈りとは本質的に「応答の言葉」である。キリスト教の共同体は総じて「神の言葉が全てに優先する」ということで意見が一致している。そのために「創造」「救い」「裁き」「祝福」「慈悲」「恵み」など全てにおいて、神の言葉が優先権を握るのである。
……礼拝する会衆の中に身を置く時、わたしたちには何の主導権もない。他の誰かが祈りの場所を定め、他に誰かが祈りの時間を設定し、他の誰かが、わたしたちに「祈り始めなさい」というのである。神の言葉が聖書と説教の中で聞かれ、神の言葉が洗礼と聖餐式(せいさんしき)で目で見られる。 ―― その時、「全てに先立つ神の言葉がある」ということが全体を貫く基調にあり、その上で全てが展開するのである。この場が、わたしたちが祈ることを学ぶ中心である。
わたしたちがキリストについて初めて聞いたその時よりも遥か以前、キリストに希望を見出してその時よりもずっと前に、キリストはその御目をわたしたちに注ぎ、輝く人生に向けてわたしたちの命をデザインされた。全ての出来事、全ての出会い、その全てを目指して、神の働きは展開する。その総体の一部として、わたしたちの人生は最初から、神の御手によって位置づけられているのだ。
―― エフェソの信徒への手紙1章11~12節