預言を誤解する読み方が、広く共有されている。特にその読み方は「ヨハネの黙示録」に記されている預言を誤解する原因となっている。その読み方とは「預言を予告として理解する読み方」である。この読み方は聖書的なものではない。預言者は「占い師」ではない。「主はこう告げる」と宣言するのが預言者である。預言者は神が告げていることを語る。預言者は神の言葉を今ここにある世界へ運び、神の言葉は今ここで聞かれるべきだと力説する。「神は語っている。昨日語ったのではなく、今、語っている」と預言者は言うのである。「神は今語っている。昨日語っていたのではない。神は今語っておられる。明日語るのではない」と預言者は言う。預言者の言葉とは分析して、その後に無視できるものではない。また、現実逃避のために夢想できる未来の言葉でもない。預言は個人の「今」について言及している。「時が迫っている」(黙示録1章3節、22章10節)と語られるのが、預言者の言葉である。「迫っている」とは「すぐそばにある」という意味である。「遠く離れた未来ではなく、わたしたちのすぐ目の前にある言葉」である。ただ、「不信仰・無視・臆病風」というものだけが、この預言の言葉からわたしたちを引き離してしまう。イエスもまた「神の国は近づいた」(マルコ1章15節)と宣教の言葉を述べた。この差し迫った預言の言葉を宣言された。ヨハネの黙示録の「迫っている」とイエスの「近づいた」の言葉はギリシャ語で同じ言葉を使っている。この言葉は「語る神」と「聞くわたしたち」の間にある距離を取り除く力を持っている。「預言の言葉」を「予告の言葉」に変えてしまうと、預言の言葉を後回しにし、自分と預言の言葉を応用する間に距離を置き、預言と向き合う時を「そのうち、いつか」と先延ばすことになる。
もう時間だ! 神の国はここにある。あなたがたの生き方を変えよ。メッセージを信ぜよ。
―― マルコによる福音書1章15節