詩編126編は喜びとは、パッケージ化されたものだったり、公式化されたものではない。けれども、この詩編が与えてくれるものは間違いなくある。この詩編はこの世の喜びのちっぽけさを示し、神の喜びの堅固さを明言する。この詩編はわたしたちに喜びに至る道として快楽を追求する時、コストは加速的に高くなり、見返りは逓減(ていげん:だんだんに減らすこと。)していくことに気づかせてくれる。それは、わたしたちに結果的に喜びをもたらす弟子としての道を紹介している。それは、わたしたちに喜びを分かち合い、喜びを経験する信仰への道を推奨している。それは人々の口に笑いを与え、舌に叫びを与える神の御業の物語を告げる。それは、次のようなことを為さる神の約束を繰り返し述べる。神は、さまよい、泣いている子どもたちが元気よく「束ねて穂を背負い」【詩編126編6節】家に戻るまで、同伴するのである。それは神を礼拝するために集う人々や、神の栄光に生きる四散する人々がいることを示している。一方では、神の行いの記憶、もう一方では神の約束への希望が人生を縁取っている人たちである。彼らは他に何が起ころうとも、中心では「わたしたちは嬉しい」ということが出来る。
それはちょうど夢のようだった。余りに素晴らしい話であった
主がシオンの捕らわれ人を帰還された時
わたしたちは笑い、歌った。
わたしたちは自分たちの幸運を信じることが出来なかった。
わたしたちは国々のうわさの種だった。
―― 「神は彼らに対して素晴らしかった!」
神はわたしたちに対して素晴らしかった、と。
わたしたちは一つの幸運な人々である。
― 詩編126編1~3節