わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。(ルカによる福音書13章33節)
へロデ王は主イエスを自分の政治生命を脅かす者と恐れて、殺そうとした。主イエスはヘロデの小心さを指して、彼を「狐(きつね)」(32節)と呼ぶ。そして、主イエスは今日の聖句によって、神に命じられた業を行うために自分の道を進むのであって、ヘロデを恐れて自分の道を変えることはないと語った。今日も、明日も、主イエスがなし続ける業とは何か。それは「めん鳥が雛(ひな)を羽の下に集めるように」(34節)、人々を神の許(もと)に集める働きである。そして、その業は死の場所となるエルサレムに向かって進んで行く。
エルサレムは、神と人間との関係を表わす象徴的な場所である。そこは神が人間に語りかける場所である。エルサレムに語られた神の言葉は、全世界に向けて語られた言葉である。同時に、エルサレムは神を斥(しりぞ)ける全人類の罪が表われている場所である。人間は創造主として語りかける神の戒めと言葉とを聞こうとしない。人聞は神を否定し、理性こそ人類を正しく導き、世界を明るくすると信じる。しかし、その過信が人間中心主義となり、エゴイズムが幅を利かす競争社会を生み、人間同士を孤立させ、不安を増幅している。
神は御子(みこ)の死という高価な犠牲を払って、人類に対する神の愛を示された。世界を明るくするのは、人間の理性ではない。イエス・キリストによって示された神の愛である。神を信じることは、理性を否定することではない。理性は神に仕える道具にすぎない。神の愛に立ち帰って、救いを得よう。