1865年の〝信徒発見〟から160年目という節目にあたり、名古屋聖歌隊交流委員会が主催する講話付き演奏会「歌い継ぐキリシタンの祈り」が開催された。参加団体は、名古屋市内にある四つのキリスト教系大学の聖歌隊(名古屋学院大学聖歌隊、金城学院大学クワイア、聖歌隊 南山大学スコラ・カントールム、名古屋柳城⼥⼦⼤学・名古屋柳城短期大学聖歌隊)と社会人合唱団(男声合唱団さんらい)。講話は、かくれキリシタンの宗教活動を研究対象とする南山大学国際教養学部のムンシ・ロジェ・ヴァンジラ教授が行い、会場となったのは南山大学にある神言神学院大聖堂(名古屋市昭和区)だった。
演奏会のプログラムはⅠ~Ⅳのパートに分かれており、Ⅰの「聖フランシスコ・ザビエルに捧げる」では、原曲がスペイン語の「聖フランシスコ・ザビエルの歌」を日本語にして女声2部合唱で讃美した。続いて、Ⅱの「潜伏キリシタンの祈り」では、男声合唱団さんらいが千原英喜作曲の「どちりなきりしたん」を2曲歌った。次に、「現代のかくれキリシタン講話」としてムンシ教授が登壇し、自身がフィールドワークを行った長崎県外海(そとめ)地域の潜伏キリシタンの信仰活動について解説した。ムンシ教授はアフリカのコンゴ民主共和国(旧ザイール)出身。2004年から学問的にキリシタンを研究するようになり、2012年に『村上茂の伝記:カトリックへ復帰した外海・黒崎かくれキリシタンの指導者』、2015年に『村上茂の生涯』を上梓した。
その後、10分間の休憩がもたれた。会場前方にムンシ教授が集めたキリシタン関連資料が展示され、来場者は手に取って眺めたり、教授からそれらにまつわる話を聞いたりした。
休憩が終わると、今度は千原英喜作曲の混声合唱のための歌が披露された。この曲の「おらしょ第二楽章」では、歌詞の中にキリシタン時代の言葉が現れる。当時のキリシタンたちは、聞いたラテン語を日本語風に転化して歌うなどしていた。「キリエ・エレイソン」は「きりやれんず」、「クレド」は「けれんど」、「グロリオーサ・ドミナ」は「ぐるりよざどみな」などといった具合である。そうした「おらしょ」(スペイン語で「オラシオン」は「祈り」の意)の言葉を随所にちりばめた歌は、聴く者を遥かキリシタン時代へと誘う。
Ⅲの「禁教明けの讃美歌」では、『摂津第一基督公会讃美歌集』(1874年)に収められた「我の神に近づかん」が歌われた。この曲は、現在広く使われている『讃美歌21』では歌詞が変わっているが、今回は、一番は1874年版で、二番三番は『讃美歌21』版で演奏された。
Ⅳの「信徒発見の聖母の祝日(典礼聖歌)」では、聖書朗読の後、高田三郎作曲の「元后あわれみの母」が全合唱団員によって歌い上げられた。
来場者に配られたパンフレットには、各楽曲の背景を解説する「プログラムノート」が付されており、初めて「かくれキリシタン」に触れる人にも理解できるよう工夫されていた。長崎であればこうした企画が行われる機会も多いだろうが、名古屋ではほとんど「キリシタン」や「かくれキリシタン」について聞くことがない。160周年を機に行われた今演奏会は、この地に「キリシタン」の種を蒔く役割を果たしたといえるだろう。
ところで名古屋は、〝信徒発見〟によって教会に復帰した浦上村のキリシタンが、政府によって逮捕され、流配されてきた地の一つでもある。栄や大須といった場所に設けられた牢獄では、75人もの信徒が命を落とした。これは浦上キリシタンが流配された20藩のうち、ワースト6位の死亡数である。過酷な拷問と老獪な説諭によって、一旦はすべての信徒が棄教した名古屋は、キリシタンの歴史で重要な意味を持っている。今回の演奏会で、大聖堂に響く歌に圧倒され、鳥肌が立ったという感想が聞かれたが、それは、天に召された人びとの思いと共鳴したからかもしれない。信仰のゆえに迫害され、追い詰められた者たちが希望としていたのが、バスチャンによって予言された「キリシタンの歌を堂々と歌ってもいい」日が来ることだったのだから。讃美が神に捧げるものであり、天を喜ばせるものであるなら、この歌声は地上の人びとだけに聴かせたものではなかった。
終演後のムンシ教授へのインタビューより。
――改めて名古屋とキリシタンの関係について教えてください。
ムンシ教授 長崎においてはキリシタン迫害と殉教の歴史が広く記憶され、公的にも教会史的にも強調されているのに対し、名古屋において殉教したキリシタンについてはこれまであまり注目されてきませんでした。しかしながら、近年、名古屋のカトリック共同体やキリスト教関係者の間で、この歴史的事実に対する認識が徐々に高まってきています。
一方で、名古屋が流配地および殉教地であったことを「歴史的責任」として認識する動きはほとんどみられません。それは、過去の過ちを「贖罪」や「謝罪」の対象とするよりも、「記憶」と「和解」として捉える傾向があるからです。神学的な省察を行い、適切な形で追悼することが大切でしょう。歴史的認識の深化を通じて、名古屋の宗教関係者がこの歴史を意識的に継承し、いかに適切に記憶していくかが問われていると思います。
――ムンシ教授が現在取り組んでいらっしゃる「キリシタン神社」についてもお聞きしたいのですが、その定義と数、意義を教えていただけますか?
ムンシ教授 「キリシタン神社」という用語は、宗教史や歴史学において標準化された普遍的なカテゴリーではありません。一般的には、日本のキリスト教の歴史的・文化的遺産と関りを持つ宗教的空間を指し、潜伏(かくれ)キリシタンの信仰実践と関連する場所を指すことが多いです。こうした神社の起源は多様であり、いくつかの形態が確認されています。数としては、現時点で、私の人類学的研究では少なくとも12のキリシタン神社が存在すると確認されています。
キリシタン神社の意義としては、歴史的、文化的、宗教的な観点から重要な意義があると考えられます。一つには「宗教的シンクレティズムの象徴」としての意義があり、次に「信仰の存続と適応の証」という意義があり、「歴史的記憶と宗教間対話の場」としての意義、また「文化遺産と観光資源としての価値」があると考えています。これらについては、私の近刊書籍で、人類学的観点から詳しく論じているのでぜひ手に取ってみてください。
――ありがとうございました。
神言神学院大聖堂