教皇フランシスコは来日3日目となる25日午前10時、ベルサール半蔵門(東京都千代田区)で「東日本大震災被災者との集い」に出席した。2011年3月11日の東日本大震災と津波、福島第一原子力発電所事故による被害者らが参加した。講和の中で教皇は、人々を励ますとともに、「立ち止まり、振り返ってみることが大切です」と、原子力の利用に慎重になるよう呼びかけた。
その後、午前11時、皇居に到着。宮殿の竹の間でおよそ20分間、天皇陛下と会見を行った。教皇は24日の長崎・広島の訪問について、「9歳のとき、両親が長崎・広島の原爆のニュースを聞いて涙を流していたことが心に強く刻まれています。このような自分の気持ちを込めてメッセージを出しました」と話したという。
それから午前11時45分、カトリック関口教会(東京カテドラル聖マリア大聖堂)で青年との集いに出席し、教皇が講話を行った。
人類に必要なのは、皆の同一化ではなく、共存を学ぶことです。また、友情をはぐくみ、他者の不安に関心を寄せ、異なる経験や見方を尊重することです。
いじめの被害者が「自分は弱い、価値がない」と自身を責めることも珍しくありませんが、実はいじめる側こそ本当は弱虫であり、他者を傷つけることで自分のアイデンティティーを肯定できると考えているのです。違いを脅威に思い、自分と違うと攻撃する人たちは、自分こそが脅えていて、見せかけの強さで装っています。
この「いじめ」の文化に対し、力を合わせてはっきりと言う必要があります。この疫病に対する最良の薬は皆さん自身であり、友人や仲間同士で「絶対だめ」「それは間違っている」と言わなければなりません。
愛と平和の敵である「恐れ」は、常に善の敵です。イエスは弟子たちに「恐れることはない」と言われ、「神を愛し、兄弟姉妹を愛するならば、その愛は恐れを締め出すからである」と説かれました。
また、イエスの生き方に私たちは慰めを得るはずです。イエスご自身も、侮蔑され、拒絶され、十字架につけられる意味を知っていました。
ほかとは違う者である意味を身をもって味わったイエスこそ、ある意味、最も隅に追いやられた人でしたが、与えるためのいのちに満ちていました。
持っていないことに目を留めるより、自分が与え、差し出すことのできるいのちを見いだすことが重要です。他者のために時間を割き、耳を傾け、共感することで初めて、自分のこれまでの人生と傷から自身を新たにし、周囲の世界を変えることができる愛に向かって進み出せるのです。
最も重要なことは、何を手にしたかではなく、それを誰と共有するかです。物も大切ですが、人間は欠けてはならない存在なのです。
神はあなたに、他者のためにも存在してほしいと望んでおられます。神はあなたの中にたくさんの賜物を置かれましたが、それらはあなたのためというより他者のためです。
人を攻撃したり軽蔑したりするのではなく、他者の持つ豊かさを評価することを学びましょう。自分らしさを知るためには、鏡を見ていても仕方がありません。自分の中にこもらず、ほかの人、特に最も困窮する人のもとへと出向いていくことです。
その後、ローマ教皇庁大使館で教皇随行団と共に昼食。午後4時から東京ドームでミサを司式し、説教を行った。
続いて、官邸で安倍晋三首相と会談。同じく官邸で、要人および外交団等との集いに出席して、講話を行う。