実存そのものを賭けて向き合うべき課題:「自己」の問題圏へ
ウィクトリヌスはアウグスティヌスと同じく、哲学の書物を読みふけった上で「信仰」の道へと進んでいった人物に他なりませんでした。
「ウィクトリヌスは、シンプリキアヌスもいっているように、聖書に親しみ、キリスト教のあらゆる書物をもっとも熱心にひもどいて、それらを研究していたが、シンプリキアヌスにむかって、公然といったのではなく、ひそかに打ち明けて、『じつをいえば自分はもうキリスト教徒である』と語った……。」
この人物をめぐるエピソードはアウグスティヌスに、これから実存そのものを賭けて向き合ってゆくべき課題を提示したと言えるのではないか。今回の記事では、「自己」の問題について考えるための手がかりとして、この点をめぐって考えてみることにします。
「選択し、決断する人間」:アウグスティヌスの悩みとは
ウィクトリヌスのたどった道のりについて、『告白』第八巻第二章は先の箇所に続いて、次のように語っています。
『告白』第八巻第二章:
「しかし、読書と冥想によって確信を得たのちは、かれは『人びとの前でキリストを告白する』ことを恐れるなら、『神の天使たちの前でキリストに否まれるであろう』と憂えた。[…]そして、かれはむなしい事柄に対しては恥じず、真理に対して恥じるようになり、突然シンプリキアヌスに語ったのであるが、まったく思いがけなくかれにむかい、教会に行こう、自分もキリスト者になろうといった……。」
このエピソードは迷いの渦中にあったアウグスティヌスに対して、「選択し、決断する人間」の実例を提示したと言えるのではないか。事態を、二点に分けて整理してみます。
① キリスト者として生き始めることに対して、洗礼前のウィクトリヌスは大きなためらいを感じていました。というのも、それまでの彼は、当時の流行であった異教の神々への崇拝を同時代人たちに対して大いに喧伝するのと共に、そのような人物として社会的信用も得ていたからです。「神の愛」へと立ち返り、洗礼を受けて今から新しい人生を生き始めることはできないと考え、ウィクトリヌスは当初は「心の中では信じるけれども、あくまでも信仰は内面のうちにとどめておく」という立場に踏みとどまっていたと『告白』は語っています。
② しかしながら、ウィクトリヌスは最終的には「新しい人間」として生き始めることを決意し、その選択に従って自らの道を進んでゆきました。
「かれはむなしい事柄に対しては恥じず、真理に対して恥じるようになり、突然シンプリキアヌスに語ったのであるが、まったく思いがけなくかれにむかい、教会に行こう、自分もキリスト者になろうといった。」さまざまな内的葛藤はあったようですが、ウィクトリヌスは結局、「自己自身であること」に対して忠実に生きる道を選ぶことになります。すなわち、彼は自分に対して生き方そのものの大きな転換を迫ってくる選択を引き受けつつ、「神を愛し、隣人を自分自身のように愛する」という生き方を選び取りましたが、ウィクトリヌスをめぐるこのエピソードは、それを聞いたアウグスティヌスには非常に大きな悩みをもたらすことになります。というのも、「選択し、決断することの不可能性」という問題こそ、当時の彼にとって最も重大な障害として立ちふさがっていたものに他ならなかったからです。絶望し、行き詰まり、戻ってゆく場所などもう存在しないはずなのに、それでも新しく生き始めることを決断することもできない。『告白』のこれからの道行きは、この「自己自身であることを選び取ることの不可能性」という主題をめぐって展開されてゆくことになります。
「自己」の問題と「〈他者〉の超絶」:『告白』が語っているもの
論点:
「『自己自身』であること」を選択し、決断するための意志は、どのようにして生まれてくるのだろうか?
まず前提として、「自己」の主題圏には、意志の問題が深く関わってくることは間違いないと言えるのではないか。なぜならば、「自己」とは、人生の流れを決めてしまうような重大な局面において、あるいは、日常における一つ一つの小さな出来事のただ中で、常に「本来のおのれ自身であること」を選択し続けることを通して掴み取られ、保たれるものに他ならないからです。「自己」を「自己」たらしめるものとは「覚悟」あるいは「決意」なのであってみれば、「自己」の問題とは究極的には、「おのれ自身であることを意志し続けること」の問題に帰着するのではないか。アリストテレスからストア派にかけて、あるいは、デカルトを経てハイデガーに至るまで、哲学の営みは常にこの、「覚悟」あるいは「決意」の問題圏を通して人間の人間性を問おうと試み続けてきたと見ることもできそうです。
しかし、この「自己」なるものをめぐる問題は、「自己」をその孤絶状態においてのみ考えるだけで、その錯綜を解きほぐすことができるのだろうか。むしろ、『告白』におけるアウグスティヌスの道のりは、パスカルやキルケゴールの思考と同じく、「自己」に到達するという出来事は、人間の心が、「〈他者〉の超絶」によってその存在の奥底から震撼させられることを通して初めて生起するという実存論的事実を示しているのではないか。
『告白』において語られているのは、「おのれ自身であること」を選択し、決断し続けてゆくような英雄的精神のあり方では決してありません。むしろ、この書物を通して語られているのは、哲学の歴史を学び、実存のすべての問題とはつまるところ「意志」の問題に帰着することを痛感しながらも、どうしてもその意志を意志することができず、その「絶望」のただ中で崩れ落ちてゆきそうになりながらも、ぎりぎりのところで「神の愛」に、自らの意識を超えたところに存在する「〈他者〉の愛」に出会うことになる人間の姿に他ならないと言えるのではないか。「絶望」に襲いかかられ、「もうこれ以上先に進むことはできない」という袋小路に陥った人間のもとに、「根底から新しく生き始める」という意志はどのように到来するのか。「自己」が「自己」であることの限界に直面し、その息切れのただ中で「〈他者〉の超絶」に包まれることを通して命を与え直されるという出来事が、あるいは起こりうるのだろうか。エマニュエル・レヴィナスという巨人の思考が現れて以降、哲学の営みには、「自己の自己性」なるものを改めて捉え直す可能性が与えられています。私たちとしては『告白』を読み直すことを通して、この課題に取り組んでみることにしたいと思います。
おわりに
アウグスティヌスは回心後の彼自身について、「こうしてわたしは、自分の欲することをまったく欲せずに、あなたの欲することを欲するようになった」と語っています。ここで語られている「意志の再生」という出来事は、哲学の論点としても非常に大きな重要性を持つものと思われますが、この点を掘り下げるためにはしっかりとした準備作業が必要になってくるものと思われます。次回からの記事では、キルケゴールの『死に至る病』の言葉にも耳を傾けつつ、先に進んでゆくことにしたいと思います。
[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]