「命運」とは何か?:「実存の本来的歴史性」をめぐる問い
『存在と時間』の議論によるならば、現存在であるところの人間の実存における「本来的歴史性」なるものは、過去の先人たちの生きざまを「反復」することを通して実現されるのでした。ハイデガーはまた、人間存在が「反復」のモメントを生きる時には、彼あるいは彼女は「命運」として実存することになると語っています。
「反復を私たちは、じぶんを伝承する決意性の様態としてしるしづける。この様態をつうじて現存在は明示的に命運として実存するのである……。」
「命運 Schicksal」とは、宿命あるいは運命とも言い換えることのできる表現ですが、人間存在が「命運」として実存するとは、いかなることを意味するのでしょうか。今回の記事では、この点をめぐって考えつつ、「歴史性」に関する議論を掘り下げてみることにします。
本来的実存は、いかにして「命運」として生起するのか
「決意性=『内なる呼び声』に聴き従う実存のあり方」に関して、ハイデガーは次のように言っています。
『存在と時間』第74節:
「現存在がより本来的に決意するほど、すなわち死への先駆におけるじぶんのもっとも固有なきわだった可能性にもとづいて、あいまいさなくみずからを理解するほどに、現存在の実存の可能性をえらびながら見いだすことは、それだけ一義的なものとなり偶然的ではないものとなる。死へと先駆することによってのみ、偶然的で『暫定的』な可能性が駆逐されるのである。[…]実存の掴みとられた有限性は、愉悦や軽率や回避などの、もっとも身近に誘いかけてくる、さまざまな可能性の際限もなく多様なありかたから現存在を引きもどして、現存在をその命運の単純さのうちへとつれもどす……。」
議論を、二点に分けて整理してみます。
① 「決意性」は、現存在であるところの人間が「死へと先駆すること」を通して先鋭なものとされ、一義的なものとして生起します。「他の誰でもないわたしはいつの日か、確実に死ぬ」という事実を受け止めることは遅かれ早かれ、人間を「内なる呼び声」に聴き従うような実存のあり方へと導いてゆきます。すなわち、本来的な仕方で「死への先駆」のモメントを生きる際には、彼あるいは彼女は「わたしはただ一度限りのこの実存を、『最も固有な存在可能=これ以外にはありえない、わたし自身の生き方』として生きねばならない」と決意することへと導かれてゆくのであって、このことは、別の側面から事態を眺めるならば、「本来の『あなた自身』たれ!」と呼びかけてくる「内なる呼び声」に聴き従うことを意味します。このようにして、「死への先駆」を通して「決意性」は「先駆的決意性」として生起することになるというのが、『存在と時間』後半部の議論の核心の一つであったといえます(実存は、その最も先鋭な様態においては一つの全き「死を覚悟することへの自由」を生きることになる)。
② この本来的実存の生起は、「反復」のモメントを通して「命運」として実現されることになります。すでに見たように、現存在であるところの人間が本来の自己を生きるとは、彼あるいは彼女にとっての運命であるところの先人たちの生きざまを「反復」し、「遺産」を受け継ぐ人間として実存することを意味するのでした。この意味からすると、「内なる呼び声」は人間を必然的に「『遺産』を伝承する実存」へと導かずにはおかないのであって、この時にこそ彼あるいは彼女は「命運」として実存することになります。すなわち、反復しつつ伝承する実存は、歴史において自分自身に課せられた「使命」を果たそうとする自己投企へとおのれ自身を必然的に収斂させてゆくことになるのであって、このようにして、おのれ自身を何らかの仕方で歴史の輪を担う実存へと昇華させてゆくような生き方こそ、ハイデガーが「命運」と呼ぶものにほかなりません。決意する人間は「命運」として、達成されることもあれば挫折に終わることもありうる企てへと乗り出してゆくことになるというのが、『存在と時間』が「本来的歴史性」なる主題に関して提示している議論であるといえます。
哲学の営みは、「命運」そのものであらんとするような自己投企を要請している
『存在と時間』第74節:
「現存在が命運の打撃をこうむることがありうるのも、現存在はみずからの存在の根底において、右にしるしづけられた意味で命運であるからにほかならない。現存在はみずからを伝承する決意性のうちで命運的に実存する。そのことで現存在は世界内存在として、『幸運な』事情に『迎えられること』にも偶然の過酷さに対しても、開かれている……。」
実存する人間の側から見るならば、「将来」は常に不確定性のうちで揺れ動いているというのが、「命運」なる概念を理解する上での重要な点なのではないかと思われます。すなわち、人間存在が「これ以外にはありえない」と言えるような生き方を選び取り、自分自身に与えられている務めを果たそうと全力を尽くす時には、その試みは必然的に「結果がどうなるかは分からない」というリスクを引き受けることになるのではないか。私たち自身が生きているこの「実存」なるものには、成功するのか失敗するのかには関係なく、身を削ってでも守り抜くべきものを守るために全存在を賭けるような瞬間も折に触れてやって来るものなのではないか。事の大小には関わらず、本来的な実存はどこかで必ず「遺産の伝承」のような営みにコミットすることになるということ、そして、その試みは必然的に「たとえ挫折に終わることになろうとも、わたしはわたし自身に委ねられた『使命』を果たす」というモメントを含み込むことになるという事実が、「命運」なる語のうちには含意されているものと思われます。
こうした事情を踏まえた上で、「哲学の元初」を探るという主題に立ち返ってみるならば、哲学する人間にとって、上記のことは、「ある」を問うことが哲学にとっての運命となるかどうかは、彼あるいは彼女の選択と決断にかかっているということをも意味するのではないだろうか。
今から二千年以上前に、パルメニデスやプラトン、アリストテレスといった先人たちによって「存在の意味」が問われることを通して、「形而上学」なる学的探求は開始されました。二十世紀になって、ハイデガーやレヴィナスといった哲学者たちが、その生涯をかけた探求を通して再び存在問題を俎上に載せましたが、2023年の現在において、彼らの探求がそれにふさわしい仕方で伝承されてゆくかどうかは、いまだ不確定なままにとどまっています。哲学の営みは果たして、過ぎ去った時代から受け継ぐべきものを受け継ぎつつ、おのれの問うべき問いを問うことができるのだろうか。現代の哲学は、「私たちは生まれてくるべきではなかったのではないか?」という見えざる問いかけのただ中でさまよい続けている。問うべき問いを問い、「生きることの根源的な意味」へと到達するためには、哲学する人間には、おのれ自身を「命運」のような何物かへと収斂させてゆくことが求められるのではないだろうか。哲学の営みは、問いを問いとして開かれたものであらしめようとし続ける、そうした不断の自己投企の試みなしには存続しえないものなのではないかと思われるのである。この意味からすると、「存在」をめぐる先人たちの思索が「遺産」として受け継がれ、たどり着くべき地点へと導かれてゆくかどうかは、2023年の現在においてはなおも開かれたものであり続けていると言えるのかもしれません。
【おわりに】
1927年の時点において、ハイデガーは「存在の解釈をめぐる争いは、調停によって解決されることができない。その争いはいまだ焚きつけられてさえもいないからである」と『存在と時間』公刊部の終わりに書きつけていました。「哲学の元初」をも見据えつつ、『告白』という書物が語っているものを探ろうと試み続けている私たちの探求は、存在問題を再び焚きつけることにもどこかで繋がってゆくことになるのだろうか。以上のような事情を念頭に置きつつ、私たちとしては引き続き、「歴史性」をめぐる議論をたどってみることにしたいと思います。
[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]