わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。(使徒言行録15章11節)
パウロやバルナバは、人は主イエスによる罪の贖(あがな)いを信じて救われると教えていたが、あるユダヤ人信徒たちが各地の教会を回り、異邦人信徒に「割礼(かつれい)を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えた。このため、両者の間に激しい意見の対立と論争が生じた。主イエスの救いは何かという福音理解をめぐって、初代教会は分裂の危機に直面したのである。この問題について協議するために、使徒や長老たちがエルサレムに集まり、会議を開いた。議論が重ねられた後、パウロたちによる異邦人伝道の報告を踏まえて、ペトロが今日の聖句を語った。これにエルサレム教会の指導者ヤコブも同意の意見を述べ、一応の結論が出た。すなわち、「神に立ち帰る異邦人」(19節)に割礼は不要であること、ただ偶像に供える肉と不品行を避ける律法は大事であるとした。
ただし、これで問題は解決せず、その後もパウロたちは異邦人に律法を強いるユダヤ主義的信徒に悩まされた。教会の宣教をどのようにだれが担うかという方策や運営は、選択の問題であって、絶対的ではない。しかし、救いにかかわる福音理解はどちらでもよいというわけにはゆかない。だから、論争があり、分裂があるのもやむをえない。ただし、真理の問題とは言え、真理を受け取る私たちは絶対ではないのであるから、先入観に捉われず、他者の主張をよく聞き、聖書を通して検討し続ける姿勢が大切である。私たちはとかく、主張を異にする他者の人格まで否定するが、はたして主を喜ばせることか反省したい。