キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。(コリントの信徒への手紙I 15章14節)
キリストの復活は人間の理性では理解できない出来事である。キリストの復活の証人は主の弟子である。「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です」(使徒言行録2・32)。確かにキリストの復活は彼らの生涯を根底から変えた。主の復活がなかったら、主の死を契機に散って行った弟子たちは再び集められなかったし、キリスト教は存在しなかった。しかし、再び集められた弟子たちは誹謗(ひぼう)され迫害されたにもかかわらず、命を賭けてキリストの復活を伝えたことは事実である。
パウロは復活のキリストがぺトロをはじめ多くの兄弟たちに現れたこと、そして、最後に教会を迫害していた自分にも現れたことを語る。そして、「復活しなかったはずのキリストを神が復活させた」と語っているとすれば、自分たちは「神の偽証人」(15節)と見なされると言う。神の偽証人と見なされることは、神を畏(おそ)れるパウロにとって不名誉なことであり、断じて受け入れ難いことであった。まさに、キリストの復活を語ることはパウロの神に対する誠実であった。そして、今日の聖句のように、キリストの復活こそ弟子たちの宣教の原動力であり、また信じる者の救いの根拠である。
キリストの復活は私たちを罪と死の支配から解き放つ神の救いである。主の死と復活によって、「死は勝利にのみこまれた」(54節)。主を信じる者の人生は、もはや決して空しくは終わらない。主と結ばれて、その復活の命にあずかるからである。弟子たちが証言するキリストの十字架の死と復活は、今日も、私たちに信仰の応答を求める神の語りかけである。