5月29日「乏しい中からすべて」

はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費の全部を入れたからである。(マルコによる福音書12章43〜44節)

主イエスがエルサレムに入ったのは過越祭の直前で、大勢の人々が神殿に集まり、犠牲の動物や献金を捧げて礼拝していた。ラッパ型の賽銭箱(さいせんばこ)に投げ込まれた献金は、その都度、貨幣の重さに応じて音を立てた。主は一人の貧しいやもめがレプトン銅貨(当時一番小さな貨幣)二枚を入れるのを見て、弟子たちに今日の聖句を語った。「生活費の全部」を捧げるのは非常識であると思うが、主イエスは彼女のように生活費全部を捧げよと言ったのではない。神は私たちから金を搾(しぼ)り取る方ではなく、反対に、私たちに必要なものを与えてくださる方である。彼女は生活費の全部を捧げることによって、「私の生活を支えてくださるのは神である」という信仰を言い表したのである。主イエスは彼女の信仰に対して「アーメン(真実)」と言った。私たちは自分に自信があった時、神に縁のない者であった。しかし、貧しくされ、小さくされた時、私たちは神に招かれ、神の国(支配)に生きる者となった。「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである」(ルカ6・20)。

私たちが捧げる献金は、「私の生活に責任を取ってくださるのは主である」という信仰を言い表すことである。また、献金は、神が御子の尊い血によって私の罪を贖(あがな)い、神の国に生きる者としてくださったという感謝を神に捧げることである。また、献金は、神の栄光が現されることを願って、「神のご用ために用いてください」と、私たちの体を捧げる献身の表明である。

内藤淳一郎

内藤淳一郎

西南学院大学神学部卒業後、日本バプテスト連盟の教会で牧会、鹿児島大学哲学科のカトリックの神学の学びから、鹿児島ラ・サール高校でも教える。日本バプテスト連盟宣教室主事、日本バプテスト連盟常務理事を8年間務める。

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