3月5日「お前たちの家は見捨てられ荒れ果てる」

エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛(ひな)を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。...見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。(マタイによる福音書23章〜38節)

神の天地創造は「無から創造」であると同時に、「言葉による創造」である。世界は偶然に生起し、偶然に存在するのではなく、神の意志によって創造された。ゆえに、自然も人の命も神の前に意味がある。世界には神の支配を疑わせる出来事も起こるが、その出来事も神が支配し、神が人と出会われる場所である。人は、呼べば答える自由な人格として神に造られた。神の言葉に応えて生きるためである。神はイスラエルの預言者たちを通して、最後には御子イエスを通して語る。人は神の言葉を聞いて、神の義と愛を映し出す世界を作る責任を負っているのである。しかし、人はその責任を負おうせず、主なる神を信じないで、自分を主人(神)と考えて行動する。

主イエスの今日の言葉は、預言者を殺し、神の言葉を聞こうとしない人々に対する神の呼びかけである。この言葉には、人を裁く神の義と、人が立ち帰るのを待つ神の愛が込められている。森林火災の焼け跡に、焼死しためん鳥の翼の下から生きている雛鳥が見つかった。そのように、神の御子イエスは神に裁かれて死ぬべき人間を最後の破局から救おうとして、十字架にかかりご自身の命を捨てたのである。主イエスの十字架に、襲ってくる火から雛鳥を救うために、その羽の下に集めようとするめん鳥のような、神の犠牲愛がある。主イエスのもとに来て、その愛の翼に抱かれる者は、神の裁きから救われ、神の義と愛に応えて生きるようになる。

内藤淳一郎

内藤淳一郎

西南学院大学神学部卒業後、日本バプテスト連盟の教会で牧会、鹿児島大学哲学科のカトリックの神学の学びから、鹿児島ラ・サール高校でも教える。日本バプテスト連盟宣教室主事、日本バプテスト連盟常務理事を8年間務める。

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