あなたに言っておく。七回どころか、七の七十倍までも赦しなさい。(マタイによる福音書18章22節)
私たちは自分をひどい目に遭わせた人を赦(ゆる)せない。怒りと憎しみが心中を駆け巡り、仕返ししてやろうと考える。そのような私たちに主イエスは「赦しなさい」と言う。相手の罪を放っておいてよいのか。赦すとしたら、何回までか。この問いに、主は今日の聖句で答えて、たとえを話した。
ある王が一人の家来に数兆円となる負債の返済を求めたが、ひれ伏して猶予を願う彼を憐(あわ)れに思い、巨額の負債を帳消しにしてやった。ところが、その家来が数百万円を貸している仲間に会うと、仲間の願いを聞き入れず、返済するまで牢にいれた。そのことを知った王は怒って、「わたしがお前を憐れんだように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と言い、彼を牢に引き渡した。
このたとえの王は、神である。決算の時、私たちは神の御心を行ったかどうか責任を問われる。罪とは、神に返すべき責任を果たしていない負債である。神は私たちの負債が返済不能であるために、私たちを憐れんで、その負債のすべてを帳消しにしてくださった。当然、帳消しにした巨額の犠牲は神が負われた。その犠牲は私たちの罪を負って十字架で死んだ神の御子である。神の御子がその命をもって、私たちの負債を清算してくださった。この高価な十字架の恵みによって私たちの罪は赦され、神の裁きから救われた。十字架なしに神の赦しの恵みを語ることはできない。自分の罪の大きさと、神が払われた高価な恵みを知ることなしに、人を赦す心は起こらない。御心を行う者となるために、私たちは絶えず十字架のもとに立たなければならない。