その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。(マタイによる福音書12章13節)
主イエスは安息日に会堂に入り、礼拝をしている人々の中に片手の萎(な)えた人がいるのを見た。主は病気で苦しむ者、罪に悩む者、重荷を負って途方に暮れている者に目を注がれる方である。主イエスは言った。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2・17)。
主イエスは片手の萎えた人に「手を伸ばしなさい」と言った。その人が主の言葉を聞いて、その通りにした時、彼の手は癒された。「彼は傷ついた葦(あし)を折らず、くすぶる灯心を消さない」(マタイ12・20)。主イエスに目を留めていただくならば、傷ついて今にも折れる葦のような人間も、その傷を癒されて、しっかりと立つようになる。くすぶる灯心のように、途方に暮れて信仰さえも消えてしまいそうな人間も、主イエスの霊に息吹(いぶ)かれて、その魂は生き返る。
主イエスは今も、礼拝に集う私たち一人ひとりに慈しみ深い目を注いで、「手を伸ばしなさい」と言われる。私たちは自分の罪と破れを携えて礼拝に集い、病んでいる手を主イエスの前に差し出そう。主イエスは私たちの病めるところを癒し、天の国の救いに導く神である「主の日」の礼拝は、私たちがこの神のもとに来て、疲れた体と傷ついた魂を癒していただく日である。何よりも、主イエスの十字架の死と復活を通して、「わたしはあなたを贖(あがな)った。あなたはわたしの愛する子だ」と語ってくださる神の言葉を聞き、私たちの体も魂も神のものとされていることを喜ぶ日である。