人の子は安息日の主なのである。(マタイによる福音書12章8節)
創世記1章によれば、天地創造を終えた神は、創造したものを見て、「良し」と言ってそれらを喜び、祝福し、憩われた。これが安息日である。神は、人が神に造られ、神の喜びの対象であることを覚えさせるために、私たちを安息日に招く。安息日は、私たちが仕事の手を休め、神の前に出て、私たちを良きものとして造り生かしめる神の喜びにあずかる礼拝の日である。ところが、人は創造主なる神を崇めようとしない。自分の持っている物はすべて、自分の命すらも、自分が得たものと思っている。その結果、人は仕事や物の奴隷になり、生かされている喜びを知らず、忙しく、空しい人生を送っている。
神を礼拝する民として選ばれたユダヤ人も、主イエスの時代、礼拝が喜びでなく、重荷となっていた。宗教指導者が安息日を強制し、こと細かな律法で人々を縛っていたからである。ある日、律法に熱心なファリサイ派の人々が、安息日の律法に違反した主イエスの弟子の行為を見て、非難した。その時、主はダビデの故事を引いて、「律法は人を縛るものではない」と言って、今日の聖句を語った。
人の子イエスは、自らの死をもって人の罪を贖(あがな)い、人々がその罪を無条件に赦(ゆる)されて、神の御座に近づけるようにした安息日の主である。主イエスの赦しの恵みにあずかった者は誰でも、はばかることなく神の御座に近づくことができる。安息日の律法や礼拝の形式に縛られないで、安息日の主をこそ仰ぐべきである。そうすれば、安息日は、私たちを造り、生かし、赦す父、御子、聖霊の三一の神の恵みにあずかって、心から神を礼拝する「喜びの日」(イザヤ58・13)となる。