8月20日「人々を連れて来て、この家をいっぱいに」

通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。(ルカによる福音書14章23節)

主イエスは「神の国」をしばしば祝宴に譬(たと)えた。なぜ主イエスは神の国を祝宴に譬えられたのか。人々と食卓を囲む祝宴は、喜ばしい交わりの場所だからである。神の国は主イエスに招かれ、主と共にいる喜びの場所である。祝宴を準備して、「もう用意ができましたから、おいでください」(17節)と招く譬えの主人は神である。神は神の国を用意して、人々を招く。ところが招待された人々は、次々と断った。人々はこの世の絆に固く縛られ、神の国よりも仕事や家庭のほうが大事であった。主人は人々に断られて怒るが、祝宴を中止しない。主人は今日の聖句を語って、僕(しもべ)を遣わす。これは「すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んで」(Iテモテ24)、ご自分を低くし、あらゆる手段を尽くして、人々を招く神の熱い愛の言葉である。

しかし、「あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない」(24節)という言葉によって、神の招きに応えるのは「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」(21節)であって、富める者ではないことが語られる。富める者はこの世の絆に縛られているので、神の招きを無視してしまうのである。ある神学者はこの聖書を解き明かして、「われわれはだれであるか。われわれは富める人間である」と言う。私たちは神を無視する富める人間でもあると自己理解して、神の招きに備えなければならない。死の彼方(かなた)に永遠の世界があること、この世の事だけが人生のすべてではないことを知らなければならない。神の招きを断る者は、永遠の運命について自らが責任を負わなければならない。

内藤淳一郎

内藤淳一郎

西南学院大学神学部卒業後、日本バプテスト連盟の教会で牧会、鹿児島大学哲学科のカトリックの神学の学びから、鹿児島ラ・サール高校でも教える。日本バプテスト連盟宣教室主事、日本バプテスト連盟常務理事を8年間務める。

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