主の御名をあがめます。
MAROです。残暑がこれでもかと厳しい毎日ですが、皆さま夏バテなどせずにお過ごしでしょうか。今週もしばしお相手させていただきます。よろしくお願いします。
この連載もありがたいことに20回目になりました。どんなことでも、20回やると「やったな」という充実感を得られることが多い気がします。腕立て伏せも腹筋も、20回できると、うっすら汗も出てきて「やったな」と思えますし、小学校の頃に解いた算数の問題集なんかでも、20問やれば「今日もちゃんと勉強したの?」と両親に聞かれても「したよ!」と堂々と答えられたように思います。
実は今、糖質制限ダイエットをやっているのですが、これも20日を過ぎた頃から「白米を食べたい」という欲求がスーっと薄れて、ストレスに感じなくなりました。そしてコロナ太りでちょっとキツくなったジャケットをすっきりと着られるようになりました。
そんな風に、何かをやったり続けたりに「20」という数字は鍵になるような気がしてます。どんな習慣もまずは20日。ダイエットも、日記も、禁煙も。20日とか20回続いたものは、その後は特に大きな理由でもない限り、意識せずとも自然に続いていきます。
しかし、そうやって「20」を意識している僕が、どうしてもなかなか達成できない「20」があります。クリスチャンとして、しかもこんなコラムを書かせていただいている身として恥ずかしいことであるのですが、正直に白状してしまいますと、それは祈りです。「これから毎日、欠かさず祈ろう!」と強く決心して、何度も試みたのですが、どうしても「毎日祈る」というのを20日続けることができません。朝祈ることにすれば、朝の忙しさや急な電話に押しやられて祈ることを忘れて挫折したり、夜に祈ることにすれば疲れて眠くなって寝てしまって挫折したり。祈ることの難しさを、その度に痛感させられます。
毎日食事をするのは簡単なのに。毎日寝るのも簡単なのに。毎日コーヒーを飲むのだって簡単なのに。糖質制限だって続けられるのに。このコラムだって一度もサボることなく20回続いているのに。それに比べたら、1日たった5分の祈りの時間を持つことなんて簡単でしょ!?と、思うのですが、これがどうしても難しいんです。
「禁煙なんて簡単だよ。俺なんかもう50回もやってるぜ」というジョークがどこかにありましたが、これを手放しで笑えないような気分にもなってきます。いくら強く決心しても「20日祈る」これは難しい。こんな僕はもう、クリスチャン失格なのではないかと自分を責めたこともありました。
でもあるとき、牧師に言われました。「祈ろうと思わなくていい。祈れないときは祈れなくていい。そのために教会があって、祈れないときは教会が代わりに祈っているのだから」と。
「祈ろう」と思う気持ち、「祈り続けなきゃ」という意志。これが僕の祈りの邪魔をしていたのかと思います。たとえば、友人と会話をするのに「20日続けて毎日会話をしよう」なんて思いませんよね。自然に話すときは話しますし、何かでたまたま一日「そういえば今日は顔を合わせなかったな」なんて日もあるかもしれません。でも話せなかったからといって「自分は友人失格だ・・・」なんて思いませんよね。「話さなきゃ」と意識しなくてはいけない時点で、どこか関係がギクシャクしていると思いませんか。
これと似たようなことが、自分と、神様と、教会の関係なんだなと思わされました。「祈らなきゃいけない」と思うこと自体、神様との関係がギクシャクしている証拠なのかもしれません。たとえば初めてのデートのときとか、「何か話さなきゃ話さなきゃ」と思えば思うほど話せなくなったりします。同じように「祈らなきゃ祈らなきゃ」というプレッシャーが、自分を祈りから遠ざけてしまうこともあるのではないかと。誰かと仲良しならコミュニケーションは意識しなくても自然と湧いてきます。神様と仲良しなら意識しなくても自然と祈りが湧いてきます。
そんなことを思って、「祈ろう」と意識することをやめてみたら、とても楽に自然に祈れるようになった気がします。むしろ「祈ろう」と思っていたときよりも祈っていると思います。それが20日続いているかどうか数えてしまうと、また意識してしまうし、不自然な気がするので数えませんけれど。たぶんちょこちょこ抜けた日があったりしていると思うのですが、それも気にしないことにしました。祈りたい時に祈ればいいやと。だって意識しちゃって反対に「今日の分は終わったから今日はもう祈らなくてOK」みたいになっちゃったら、祈りにしてもなんだかビジネスライクな感じがしちゃいますしね。
何かをしようと思っても続かない、という方、いませんか。そして失敗するたびに「もっと意志を強く持たなければ」って思ってしまう方、いませんか。もしかしたら反対に、意志を持たないようにしてみたら、意外と長く続くかもしれません。
はい。今回も無事にこのコラムを書き終えられたので、ちょっと感謝の祈りをしてから「それではまたいずれ」と、いつもの締めの文句を書きたいと思います。
それではまたいずれ。MARO でした。
主にありて。