主の御名をあがめます。
MARO です。今週もしばしお相手させていただきます。よろしくお願いします。
外出自粛の日々が続いていますから、特に夜は暇(ひま)なので、よくマンガを読んだりしています。僕は特にあの「◯◯王に、おれはなる!」で有名な海賊マンガが大好きなのですが、あれっていつになったら完結するのでしょうね。20年以上も続いているのに、まだまだ終わる気配がありません。あちこちに張られた伏線が最終的にどんなふうに回収されるのか楽しみで、今からワクワクします。
さて、そんなふうに「完結まで長い年月を要する本」って他にもたくさんあるのですけれど、その中でも突出してすごいのが聖書です。聖書っていつ頃に書かれたかご存じですか。これには諸説ありまして、「これが正解!」と断言はできないのですけれど、旧約聖書はだいたいBC1500〜500年頃に、新約聖書はAD30〜100年頃に書かれたとされています。BC1500年に書き始められた本が、AD100年に完成したわけです。なんと1600年もかかっています。
これって、日本の歴史にあてはめれば、古墳時代に書き始められた本が、令和の時代になってようやく完成したのと同じです。しかも、最初から最後までたくさんの伏線が張り巡らされ、しっかりとそれを回収しているんです。「1600年越しの伏線回収」です。こう考えると、とんでもないスケールの本ですよね、聖書って。これはもう、ものすごいことです。そんなこと、神様にしかできません。
さらに言えば聖書は、完成してから約2000年後の現代に至るまで読み継がれているのですから、古墳時代から1600年かけて令和の時代に完成した本が、そのまま2000年後のAD4000年まで大ベストセラーとして読み継がれているようなものです。ここまで考えると、もはや気が遠くなります。
2000年後の人類って、どんな生活をしているんでしょうね。イエス様の時代から見れば、それはもう想像を絶する世界なのでしょうけれど、しかし人の心はあんまり変わっていないようにも見えます。人は苦難を前にすれば「いつまでですか」と問いますし、自分より他人を大切にすることは相変わらず難しいですし。もしかしたらその頃には、聖書に記されている「世の終わり」が来て、人類は神様のもとで苦しみも悲しみもなく暮らしているのかもしれません。はっきり言って、さっぱり見当もつきません。でも、そんな「見当もつかないほどの未来」にまで読み継がれる本があったら、それはとんでもない本だと思いませんか。そんな本があるなら読んでみたいと思いませんか。そんな本が聖書なんです。
でも。
今回言いたいことは、「だから聖書を読みましょう」ってことではありません。そうではなくて、「この世に、終わらない苦難はない」ということです。聖書にはたびたび「いつまでですか」という問いが出てきます。これは、詩人や預言者たちが苦難に遭った時に神様に向けて発した問いです。2000年前にも3000年前にも、人々は苦難に遭い、「いつ終わるの、これ !?」と問うていたんです。しかし、そのような問いを生んだ苦難もすべて、やがて終わりました。聖書が書かれている1600年の間にも、書かれ終わってからの2000年の間にも、終わらなかった苦難はひとつもないんです。
今、この苦難の時に「いつまでですか」と問いたい方はいませんか。「いつまでか」には誰も答えることができないかもしれません。でも聖書が教えているのは、「いつか必ず終わる」ということです。「だから希望を持ち続けろ」ということです。
苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。(ローマ5:3〜5)
このことばで張られた伏線は、現代でもまだまだ回収され続けています。1600年どころではない、「3500年越しの伏線回収」に期待して、毎日ひとつでも多くの希望を見出せればいいなと思っています。
皆様が、この忍耐の日々の中で毎日ひとつでも多くの希望を見出せますようにお祈りしています。
それではまたいずれ。MARO でした。
主にありて。