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「ご注文は?」と、イスに座るなり店員さんが声を掛けて来た。いつもと違う声掛けに一瞬言葉に詰まったが、一呼吸おいて「耳の上辺りでカットして、後ろは肩ギリギリでカット、モミアゲは普通でお願いします」と言うと、「承知しました」と返事。散髪が始まり、途中で何度も鏡を見せながら「これでどうでしょうか?」と聞かれるので、髪型にさほど拘(こだわ)りのない私は「大丈夫です」とその都度応える。いつもの定員さんだと、「今日はどうしますか?」「いつもと同じで、横も後ろもモミアゲも普通で」というだけで、鏡は最後の一度だけ。「新客と常連」という違いが最初の声掛けの違いになり、ひいては散髪している間の姿勢の違いになっているのだと、散髪終えて気付いた。
ゲッセマネの園で、苦しみ悶(もだ)えうつ伏せになってイエスは祈られた、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ26:39)私たちも折々に祈りを捧げる、感謝であり、時には呻(うめ)きを言葉にして。だが最後に、主が祈られたように「御心のままに」と付け加えることを忘れないことが大切である。それが神への信頼であり、神に委ねるということに他ならないのだが、なのに私たちは神への祈りを、「ご注文は?」と聞かれているかのように思い込み、時間を費やし熱意を込めて言葉にする、その熱心が神の御心を動かすのだと思ってしまうからだ。
ヨブは「無垢な正しい人で、神を畏(おそ)れ、悪を避けて生きていた。」(ヨブ記1:1)しかし神の試みによって全てを失い、自らも重い病に侵された。絶望的な状況にあっても神を信じていたが、友人との対話を通しても気付かなかったことがあった。それは、神は「ご注文は?」と言ってくださる方であり、自分は注文できるに相応しい資格、即ち熱心さを実行しているという確信であった。だが神は、「ご注文は?」と聞いておられるのではなく、「どうしたのか?」と尋ねておられるだけでしかない。ヨブは絶望の中でも見捨てない神を改めて心に刻み、「御心のままに」と委ねることによって彼は物質的な豊かさのみならず心の豊かさをも得たのであった。
「どうしたのか?」と神はいつも私たちを心に留めて尋ねてくださる。私もいろいろなことを祈りとして言葉にする、「苦しい状況を打開する道を教えてください、この病から解放してください」、時には「明日、天気にしてください、今日買った宝くじが当たりますように」と。でも最後は付け加えることは忘れない、「御心のままに」と。