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いよいよ今週末、子どもたちの夏休みが始まる。「今年こそコロナの心配をしないで楽しく過ごしたい」と待っている子どもたちも多かったことだろうが、再び感染者が急増し、「ほぼコロナ禍第七波」に見舞われ、夏休みを前に心配の種が増え始めている。とはいえ、夏休みが無くなるわけではないのだから、どんな状況でその時を迎えようとも、子どもたちが夏休みを楽しく過ごせるようにと願っている。
私の小学生の頃の夏休みは、午前6時半、近所の子どもたちと一緒にラジオ体操。朝食後は午前10時まで夏休みの宿題。その後はお手製の網で蝉取りや川で魚獲りや釣り等友だちと外遊び。旅行なんて殆ど出来なかったので、夏休みの目標は「ラジオ体操皆勤賞でもらう賞品」。楽しみに待っていた夏休みだったが、いざ夏休みになると、10日毎にやってくる「登校日」が待ち遠しかったりして・・・。これが約60年前の夏休みの記憶である。特別な事といえば、小5の夏休みに父親が事故にあって20日間意識不明で生死の境をさ迷ったことくらい。勿論、これは楽しい思い出ではないが。そういえば中学・高専の時の夏休みの記憶は小学生時代よりもはるかに少ない。本当に「楽しい夏休み」だったといよりも、「もうすぐ夏休み」と待ち望む日々の方が、案外「楽しい」という形容詞は相応しいのではないだろうかと思えてくる。
確かに、楽しみな遠足も、いざその日を迎えるとあっという間に過ぎていくが、遠足を待つ日々は何日も続く。おやつを買い、持っていくものを準備し、母親にお弁当に好きなおかずをねだったりと、その日を迎えるまでのワクワクした気持ちは忘れられない。今ほど豪華ではなかったクリスマスも、サンタさんのプレゼントは何かと楽しみに待つ日々があった。必ずその日は来ると希望を抱いて待つ時こそ、私たちはいちばん楽しい日々を送っているのかもしれない。
「わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(ローマ8:25)目に見えないもの、すなわち「神の働き」を待ち望むのがキリスト者の生き方であり、それは必然的に「待ち望む」生き方となる。「困難な時にあっても、神が働いてくださることを信じ、待ちつつ望みつつ生きるなら、喜びを見いだせる」と聖書は教えてくれているのである。そういえば、子どもたちがまだ幼かった頃、「早く手がかからなくなれば」と巣立つ日を待っていたものだったが、今思えば、幼かった子どもたちと格闘し巣立つ日を待ち続けた日々こそが、「いちばん楽しい日々だった」と信仰は教えてくれていたのではなかろうか。