私には息子が2人います。さまざまな提出書類の記入の際に、私は代表保護者の欄に自分の名前を書きます。家族構成欄にも、母親である私を先に書き、父親である夫を次に書きます。書いているのは私だし、と思ってのことですが、時々、父親の名を頭に書くようにと言われることがあります。例えば、「世帯主を」という理由を提示されれば納得のしようもありますが(とはいえ世帯主は私なのに父親をと言われることもあります)、「そういうことになっている」と担当者もこちらの「なぜ?」に答えられなかったりします。こだわりはないけれど、理由もなく拒まれるとこちらも頑なになります。
私の2回の妊娠はつわりがひどかったので、それぞれ4カ月ほど働けない期間がありました(ちなみに、この期間のことで男性教職に言われた「クビにならなくてよかったね」を忘れることはないでしょう)。嘔吐を繰り返し、点滴に助けられる日々を過ぎれば出産の痛みが待っています。「生まれてからのことはあなたもできる」を言い続けた結果なのか、夫はよく世話し、よく遊ぶ父親になりました。夫は出かけた先で「うんちのおむつ、替えられるんですか!?」と驚かれ、褒められることが多々あるそうです。児童館に父親と子どもで出かけては褒められ、うんちのおむつを替えては褒められ――。母親であれば、それは「普通」のことで褒められはしないのに。私はというと、昨夏に子どもを夫に任せて友人と旅行に出かけました。同時期にSNS上で、同じように数泊の旅行に出かけるという母親が、「なぜそんなことができるのか」「母親失格だ」などと非難されているのを目にしました。父親だったらそこまで言われないでしょうに。
明確な理由もないのに「普通」はこうだ、と思われていることがあります。そしてその「普通」が、人を抑圧し、力を奪います。なぜそう思うのか、本当にそうなのか、問うてみなければならないことが数多くあります。日本のジェンダーギャップ指数は世界最低レベルで、不均衡を肌で感じます。地域の集まりで女が意見を言うなんてあり得ないというところもありますし、教会もその気質に飲み込まれています。役員会の場で、男性役員がいれば女性役員は意見を言わない/言えないということも体験してきました。教会も世の「普通」から解放されていないのです。そうして誰かを知らず知らずのうちに閉め出していることもあるでしょう。
宇和島中町教会では、遅ればせながら「兄姉」表記や、男女別の集計などを見直し始めました。「普通」だと思って慣れてしまっているあれこれを前に、どうしてそう思うのか、その考えが誰かを苦しめてはいないか、信仰者として、信仰共同体として望ましい姿は何かを考えています。「確かに、なぜこの形を維持してきたのだろう」「新しくされていく必要を感じる」との声も聞こえてきます。(母子室ではなく)親子室の設置や、より人々を招く教会になるための新しい取り組みも検討されています。先日の役員会では、教師の体調不良に備えて信徒が礼拝での話の準備をしておこうという提案もありました。これもまた、「普通」ではないことへの挑戦の一つと言えるかもしれません。
教会の姿勢は、発信するものの中ににじみ出るものです。道行く人は想像以上によく見ておられます。真理によって自由にされ、その喜びを、例えば活字の小さなところにも表していくことができますように。
うめさき・すまこ
1991年福岡県生まれ。2004年日本基督教団犀川教会(福岡県)にて受洗。2016年関西学院大学大学院神学研究科前期課程修了。甲山教会(広島県)主任担任教師を経て、2022年より宇和島中町教会(愛媛県)主任担任教師、附属鶴城幼稚園理事長・園長。