【毎月1日連載】牧会あれこれ(21)賀来周一

 

慰めを弱さで受ける

ある人が「私の愚痴(ぐち)を聞いてくださいますか」と言う。聞けば、次のような話であった。

「重い障がいを抱えた者が家にいます。その家族がいることを不幸と思ったことはありません。障がいがあろうが、なかろうが、生きる命を神さまにいただきました。命の大切さを毎日教えてもらっています。しかし、私も年を取りました。これからのことを考えると、気が重たくなります。

私は信仰者ですから、日曜日になると教会に行くのですが、入り口の掲示板には『すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう』(マタイ11:28)と書いてあります。それを横目で見て、涙をそっと拭(ふ)いて、ニコッと笑って会堂に入ることにしています。そうしないと『信仰がない』と思われそうですから。でも、とてもつらい」

そこで私は答えた。

「重荷を負って苦労している者は、ニコッと笑って教会に来ません。涙をいっぱい溜(た)めて、とぼとぼ歩いて教会に来るでしょう。イエスはそれを見て『信仰がない』などとおっしゃいません。ヤコブの手紙4章9節には『嘆き、悲しみ、泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい』と書いてありますよ」

「では、涙を拭いてニコッとしなくても……」とその人は小声でつぶやいた。

ヤコブの手紙には「嘆き、悲しみ、泣きなさい」に続いて、「主の前にへりくだりなさい」と書き添えられている(10節)。嘆き、悲しみ、泣くことによって、主の前にへりくだることができる。もし喜び、笑っている自分であるならば、表面だけ取り繕(つくろ)っている自分がいるであろう。主の前でへりくだればこそ、神の恵みを受け取ることができる。ヤコブはそう言いたいのである。

へりくだっている自分は、弱々しい自分かもしれない。しかし、その弱々しい自分であればこそ、神からの慰めを受けることができる。強ければ、慰めは不要となる。

「信仰の強い人は自分が弱い、信仰が弱い人は自分が強い」と言われる。自分が徹底して弱ければ弱いほど、主の恵みは上から流れて自分に力強く注がれる。これほど素晴らしいことがあるだろうか。

自分が強いと、自分の力で聖書を読む。そうなると、信仰が薄らぐ。

時々、信仰を持つ者は「自分が弱いからだ」と弱さを蔑視(べっし)し、自分の強さを誇る者がいる。しかし、パウロは言う。

私は、弱さ、侮辱、困窮、迫害、行き詰まりの中にあっても、キリストのために喜んでいます。なぜなら、私は、弱いときにこそ強いからです。(2コリント12:10)

低きにいてこそ、主の恵みに豊かにあずかり得ることをパウロは知っているのである。

賀来 周一

賀来 周一

1931年、福岡県生まれ。鹿児島大学、立教大学大学院、日本ルーテル神学校、米国トリニティー・ルーテル神学校卒業。日本福音ルーテル教会牧師として、京都賀茂川、東京、札幌、武蔵野教会を牧会。その後、ルーテル学院大学教授を経て、現在、キリスト教カウンセリングセンター理事長。

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