今日7月26日はヘンリー・タッピングの誕生日。宮澤賢治と親しかったバプテストの米国人宣教師です。
1909年、賢治は13歳で花巻の実家を離れ、盛岡中学校で寄宿舎生活を始めます。その2年前から、タッピングは盛岡浸礼教会(現在の日本基督教団・内丸教会)で牧会しており、盛岡中学校でも英語を教えていました。盛岡中学校と盛岡浸礼教会とは歩いて数分の距離でした。
その後、盛岡高等農林学校時代も含めて、思春期の感受性の強い時代をこの宣教師と共に過ごしたことになります。こんな同級生の証言があります。
(農林学校)一年の二学期だったか、宮沢君に誘われてタッピング牧師がやっていたバイブル講義を聴きに行った。週一回の講義だったが、彼は英語がうまく、英語と日本語半々と話し、タッピング氏によくほめられていた。英語のマスターとキリスト教への関心が彼の目的だったように思う。(『啄木・賢治・光太郎 二〇一人の証言』読売新聞社盛岡支局)
また、教会にあったオルガンを聴きに来たこともあるという。
「ビジテリアン大祭」には「祭司次長、ウィリアム・タッピング」が登場し、「爪哇(ジャワ)の宣教師なそうですが、せいの高い立派なじいさんでした」と書かれています。
また、賢治の晩年の詩にも登場します。
「かなた」と老いしタピングは
杖(つえ)をはるかにゆびさせど
東はるかに散乱の
さびしき銀は聲(こえ)もなしなみなす丘はぼうぼうと
青きりんごの色に暮れ
大学生のタピングは
口笛軽く吹きにけり老いたるミセスタッピング
「去年(こぞ)なが姉はこゝにして
中学生の一組に
花のことばを教へしか」弧光燈(アークライト)にめくるめき
羽虫の群のあつまりつ
川と銀行木のみどり
まちはしづかにたそがるゝ(「岩手公園」)
40代で来日したタッピングは最初、東京学院(現在の関東学院)で教え、坂田佑(たすく、関東学院の初代院長)を信仰に導くなどしたのち、盛岡に赴任してきた時はすでに50歳だったので、賢治が親しくしていた頃は「老いしタピング」でした。二連目の「大学生のタピング」は息子のウィラード、三連目の「ミセスタッピング」は妻のジュヌビエーブ、「なが姉」は娘のヘレンです。
教会に併設された盛岡幼稚園(現在もある)はタッピング夫人が始めた岩手県初の幼稚園。そこにはクリスチャンの女優、長岡輝子も通っていました。その幼い頃、賢治も教会に通っていたのです。
雪の降る寒い日に、やっと幼稚園にたどりつくと、タッピング先生はストーブの火をどんどん燃やして、ひとりひとりのかじかんだ手を温めてくださった。(長岡輝子『父(パッパ)からの贈りもの』草思社)
また、「賢治の妹トシはヘレンさんに英会話を習っていた」(同)とも書いています。