生きている間に、神を愛し、人を愛して生きる
2016年9月25日 年間第26主日
(典礼歴C年に合わせ3年前の説教の再録)
モーセと預言者に耳を傾けるがよい
ルカ16:19~31
今日のたとえ話を通してイエスさまが言おうとなさっていることが二つあります。一つは、「生きている時と死んだ後では、立場が逆転してしまう」ということ。そしてそれは「取り返しがつかない」ということです。
もう一つは、「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」ということです(ルカ16:31)。「死者の中から生き返る者」というのはイエスさまのことを指しています。
まとめて言うなら、「生きている時と死んでからの立場が逆転してしまって取り返しがつかないことになる」、だから、「生きている間にモーセと預言者に耳を傾け、イエスさまの言うことを聞いて生きるように」と教えておられるのです。
ところで、「モーセ」は律法の代表者、「預言者」は預言書のことを表しますから、「律法」と「預言書」に耳を傾けるという意味になります。つまりこれは、旧約聖書全体を表す一つの慣用句なのです。
では、「旧約聖書に耳を傾ける」とはどういうことなのでしょうか。ある律法学者がとてもありがたい質問をしてくれたおかげで、私たちはとても良いことを教えてもらっています。それは、旧約聖書全体がたった「二つの掟に集約される」という場面です。
ある律法の専門家が、「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と尋ねたとき、イエスさまはお答えになりました。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』。律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(マタイ22:36~40)
「旧約聖書全体はこの二つの掟に基づいている」と言われたのです。「基づいている」と訳されている言葉は、もともと「引っかかっている」「ぶら下がっている」という意味の言葉なのだそうです。
ある聖書の解説者が有名な説明をしています。聖書全体が1枚のドアだとすると、そのドアは、「神を愛する」と「人を愛する」という二つの蝶番(ちょうつがい)でぶら下がっているのだと。そのドアは、「神を愛する」が欠けると落っこち、「人を愛する」が欠けても落っこちてしまう。両方が欠けたら、ドア自体が散逸してしまうかもしれない。
ですから、「モーセと預言者に耳を傾ける」とは、「神を愛し、人を愛する」ということなのだとまとめられます。イエスさまは今日、私たちが生きている間に「神を愛し、人を愛して生きるように」と教えておられるということになります。
では、「神を愛する」ってどういうことなのでしょうか。それは、神さまが愛してくださっていると認めることだと思います。人間にはそれ以上のことができません。神が愛してくださっているがゆえに、私たち一人ひとりのうちに一緒にいてくださっている。その真実を認める。これが「神を愛する」ことです。
「隣人を自分のように愛する」とは、自分の中に神さまがいてくださることを認めるように、人の中に神さまがいてくださることを認めること。これが、「自分を愛するように人を愛する」という教えの具体的な中身なのだと思います。
自分にも人にも神さまが共にいてくださることを認め、具体的には「神さまがあなたと共におられます」と祈り、その真実を認めることが「神を愛し、人を愛すること」、すなわち「モーセと預言者に耳を傾けること」なのです。
しかし私たちは、そのことが自分の力ではできません。守ろうとしても、聞こうとしても、できない。自分にも人にも神さまが一緒にいてくださることを受け取りきれない。
そういう私たちに今日、「死者の中から生き返った方」が一緒にいてくださるのです。死者の中から生き返った方の言葉とは、これです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)
「それなら、そのキリストによって、キリストと共に、キリストのうちに、自分にも人にも神さまが共にいてくださることを認めて生きよう」。これが、今日の福音が教えてくださっていることなのだと思います。
今日もイエスさまの教えに従って、自分の周りにいる人に向かって、「神さまはあなたと共におられます」と祈れるなら幸いです。そして、そう人に祈ってもらえるなら幸いです。隣にいる家族が、夫婦が、お友だちが、互いに「神さまがあなたと共におられます」と祈り合うことができるならば、それ以上の幸いがどこにあるでしょうか。
私たちがこの地上に生きている間に、その恵みを感謝して、自分にも人にも共にいてくださる神さまを認めて生きる者となりますように、ご一緒に祈りをしましょう。