競技者の努力で神さまを認める
2016年8月21日 年間第21主日
(典礼歴C年に合わせ3年前の説教の再録)
狭い戸口から入るように努めなさい
ルカ13:22~30
イエスさまは、町や村を巡って教えながらエルサレムに向かわれました。「あなたたちはみんな、神さまの子どもです。神さまは、一人ひとりの中に留まっておられます。そのことに信頼して生きるのですよ」と教えられたんだと思います。
大学のテストみたいに、8割くらいは落とそうと考えている試験官のようなものではなく、「ひとり残らず、ご自分のいのちの中でひとつに交わることをお望みになっておられる」と教えられたんだと思います。
それなのに、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねた人がいました(ルカ13:23)。「歩留まりは確率的にどうなんでしょうか」という感じがしますが、それに対してイエスさまはこう言われました。
「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」(24節)
これは競争率の問題ではありません。「狭い戸口から入らないから入れない」と理解できます。
さらにイエスさまはたとえを続けられます。
「家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである」(25節)
このことをもう少し現実的に、具体的に、端的に考えるならば、こういうことです。「扉がいつ閉まるか分からないから、今日、扉の中にいるように」
私たちが注意を注ぐべき点は、「いつ閉まるかを知ること」ではなく、「今日、狭い戸口から中に入っていること」です。
それに際しての注意点が後半に述べられています。
「そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう」(26~27節)
つまり、食べたり、飲んだり、教えを受けたりしたことは、「そこに入っている」こととイコールではないということです。
では、「扉が閉まる前に狭い戸口からそこに入っている」というのは、具体的にどういうことなのでしょうか。
「狭い戸口」という言葉から思い起こされるのは、キリストのことです。「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」(ヨハネ10:9)とあります。
幸いなことに、「狭い戸口」であるキリストは、私たち一人ひとりのところに来ておられます。キリストが私たちの中にいて、私たちもそのキリストの中にいて一緒に生きることこそ、「扉が閉まる前に私たちが中に入っている」ということの具体的な中身なのではないでしょうか。
もっと具体的に申し上げるならば、「今日、私たちがそこに入っている」とは、キリストと共に、今日、目の前にいる人一人ひとりの中に神さまがいるという真実に目を向けて生きることです。それが「今日そこに入っている」ということの具体的な意味だと思うのです。
神さまはすべての人と一緒にいてくださいます。その真実を「そうです」と受け取らせていただくことが、神の国という救いの関係です。私たちは今日、そこに入っていなければなりません。
「狭い戸口から入るように努めなさい」と言われています。「努めなさい」と訳されているのは、ギリシア語で「アゴーニゾマイ」という単語が使われていました。「アゴーン」とは競技場のことですから、「アゴーニゾマイ」は競技場から派生した言葉だと分かります。つまり、競技者が勝利を得るために集中して鍛錬していく努力を表す言葉です。「狭い戸口から入るように、競技者のように努力せよ」とおっしゃるのです。
私たちの周りには、とても神さまが一緒にいてくださるとは思えない出来事や人もあるでしょう。しかし、競技者の努力をもって、信仰をもって、「神さまが共にいてくださる」という神の真実に目を向けて祈ることが求められています。
時にそれは自分の感性に逆らいます。「こんな意地悪をしてくる人に神さまが一緒にいてくださるなんて」という気持ちがあるかもしれません。しかし、その思いを越えて、競技者の努力をもって、「主があなたと共におられる」という真実を、信仰をもって認めるように求められているのです。
そのことが本当にできる方は、キリストただおひとりです。私たちは弱いので、できません。でも、そのキリストが私たち一人ひとりと一緒にいてくださるので、キリストによって、すべての人と共にいてくださる神さまを認めて、「今日、そこに入っているように」という呼びかけです。
神の国には、死んだ後ではなく、「今日」そこに入らせていただかなくてはなりません。その恵みと、望みと、力を願いたいと思います。