祈るという戦い
2013年8月18日 年間第20主日
(典礼歴C年に合わせ6年前の説教の再録)
私が地上に平和をもたらすために来たと思うのか
ルカ12:49~53
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」(ルカ12:49)。「わたしはどんなに苦しむことだろう」(50節)。「分裂をもたらすために来た」(51節参照)と今日の福音では言われています。「火」も「苦しみ」も「分裂」も、ある一つの真実、眼差しを欠いてしまうと、何も意味が分かりません。それは、「神さまが私たちと共にいてくださる」という真実であり、その真実に向かう眼差しです。
イエスさまは「火」を投ずるために来ました。つまり、神さまが私たちの中におられるという出会いの火をつけるために来られたのです。
そのキリストがなぜ苦しまれたのかというと、私たちが「苦しみがあるところには救いがない」という思いに縛られているからです。神さまはいかなる時も共におられるのに、その真実から離れてしまうと、苦しみは耐えがたいものになります。
その間違いを正すために、イエスさまは苦しみの中にも「神が共におられる」という救いがあることを現してくださいました。それが十字架の死という出来事です。そして、苦しみの中にも、共にいてくださる神さまにつながり続けてくださったのです。それが復活という確かな救いのしるしとなって実りました。
では、「分裂をもたらすために来た」とは何のことでしょうか。これはつまり、キリストを信じるところに立つとき、「どっちでもいい」というのではない、明確ないのちのありように立つということです。「私はキリストを信じたが、あなたは信じない。それで対立する」というような表面的なことではありません。
神さまはもうすでに共におられるのです。そのことを信じてそこに立って生きるとき、はっきりとした違いが現れます。あるいは、そこにはっきりとした戦いが始まるということができます。
しかし、その戦いというのは、私たちが普通頭で考えるような戦いとはたぶん違います。最も明らかにそれを戦ってくださったのがイエス・キリストです。そのお方の戦いが十字架の出来事の中に示されています。どういうふうに戦ったのかが、イエスさまの十字架を見れば一目瞭然なのです。
こういう戦いでした。イエスさまは、すべての人の中に「神さまが共にいてくださる」真実を見て歩んだ方です。人から罪人と思われているような人の中に「神さまが共におられる」真実を見て、告げて歩んだ方です。そのことを見ていただいた人は立ち上がったのです。自分の中に神のいのちがあるという真実との出会いに火をつけてもらったからです。
結婚式の披露宴のキャンドル・サービスで1本1本ろうそくに火がついて光が広がっていくように、イエスさまは会った人一人ひとりの中の神さまの真実に火をつけて回りました。火をつけられた人は明るくなって、まわりの人にもその火をつけるようになっていったのです。
ところが、イエスさまが告げる真実に立たない者も確かにいます。イエスさまはそういう人たちによって十字架にかけられ、唾(つば)をかけられました。馬鹿にされて、「おまえは救い主ではないか。他人は救ったのに、自分は救えない。救い主、今すぐ十字架から降りて自分を救ってみろ。それを見たら信じてやろう」(マルコ15:31~32参照)とせせら笑われたんです。ここにはっきりとした対立があります。
そのとき、イエスさまは何をしたか。ここにイエスさまの戦いがあります。祈られたんですよ。「父よ、彼らをお赦(ゆる)しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と祈られたのです。つまり、「彼らは私に唾をかけたり、馬鹿にしたりしているけど、その一人ひとりを神さまが愛して、共におられることを分かっていないのです」と祈られたのです。これが戦いです。
キリストを信じると、嫁としゅうとめが喧嘩するようになるという意味ではないからご安心ください(笑)。つまり「対立」「分裂」とは、信じることによって、はっきりとしたいのちのありようが現れるということです。そしてそのとき、そこに立つ者は戦う者、祈る者になるのです。
自分に「バカ」と言ってくる人にも、「神さまがあなたと共におられます」と祈るんです。これが、イエスさまがなさった戦いです。私たちはそうするように招かれているんです。信じるとは、「なんとなく」「どっちでもいい」ではなく、はっきりとした違いなんです。それをイエスさまは「分裂」という言葉で言っておられます。
神さまに出会わないいのちもあり、その間には戦いがあります。戦いとは、相手への祈りです。これが今日の福音が教えていることです。私たちも、信仰の戦い、祈るという戦いを戦っていくことができますように、一緒に祈りたいと思います。