いつも目を覚まして、人間の中に神のいのちを認める
2016年8月7日 年間第19主日
(典礼歴C年に合わせ3年前の説教の再録)
あなたがたも用意しておきなさい
ルカ12:35~40
今日の福音の中で、イエスさまは私たちに向かってお話しになります。
「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」(ルカ12:35)
「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕(しもべ)たちは幸いだ」(同37節)
「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」(39節)
「目を覚ましている」とは、文字どおり睡眠をとらないことではありません。そういうことをイエスさまがしなさいと言っているのではありません。「目を覚ましている」とは、私たちが本当に目を向けなければならないことにいつも目を向けて生きるように、という意味になります。
「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」と言われます。なぜなら、「主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」(37節)。そういう主人が来るのだから「目を覚ましているように」という勧めになります。
「僕」と訳されている言葉は、聖書の原文では「奴隷」です。主人が腰に帯を締めて奴隷たちに給仕をするのは異例です。なぜなら、奴隷とはその当時、「主人の持ち物」だったからです。その自分の持ち物のところに来て、帯を締めて、そばに来て給仕をしてくれる主人は異例です。普通でない感じがあります。
そういうふうに「仕える主人」というのは、「イエスさま」のイメージです。イエスさまはこう言っておられます。
「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である」(22:26~27)
イエスさまは給仕する人です。帯を締めて、仕える人です。
今日の福音の中心的なメッセージは「目を覚ましていなさい」ということだと申し上げました。
私たちが「目を覚ましている」とはどういうことかというと、「腰に帯を締め、給仕する者であること」と言ってよいと思います。イエスさまが帯を締めて、人に仕えたように、私たちもそうするようにと教えられているのです。
ところで、イエスさまが具体的にどんな仕え方をしたかご存じですか。「光で照らす」という給仕をなさったのだと私は思います。
イエスさまは、「わたしは世の光である」(ヨハネ8:12)と言われました。イエスさまは絶えずともし火をともし続け、光で照らし続けるという給仕をなさった方だと思います。
イエスさまの照らす光とは、私たちの中の悪を暴き出すような、サーチライトのような光ではありません。まったく違います。イエスさまの光は、いのちを照らす光です。
私たちの中には悪いところがわんさかあるのですが、そんなものがあるにもかかわらず、そのもっと奥に神さまが一緒にいてくださいます。神さまがご自分のいのちの「似姿」を刻んでおられます。そのいのちの真実を照らす光です。
「あなたがたの内には神さまのいのちがあるんだよ。あなたがたは、神さまが共にいてくださるいのちですよ」と、その真実を告げ、照らしてくださる「光」。そういう仕え方をなさった方がイエスさまだと言えます。
だから、その光をもってお互いに照らすように、仕えるようにと言われているのです。
「目を覚ましている」とは、自分の周りにいる人の中に神さまのいのちがあることを認め、その真実に目を向け、その真実に向けて祈ることだと思うのです。
この世の中、目を覚ますようにいつも努力していないと、あっという間に「人間の外側しか見ない者」になってしまいます。でも、そうではなく、人間の中に尊い神さまのいのちが一緒にいてくださることを、いつもいつも目を覚まして受け取らせていただくようにと、イエスさまは教えておられるのだと思います。
私たちは塵(ちり)で造られ、塵に帰っていくようないのちです。しかし、その私たちの中に神さまはご自分のいのちを注いでくださいました。
一緒にいてくださる神さまのいのちに立たせていただければ、隣にいる方の中に神さまのいのちを見いだす眼差しに入れていただけます。しかし、滅びある土の塵に立つならば、隣にいる人の外側、すなわち土の塵にしか目を向けることのできない者になってしまいます。
今日も一緒にいてくださる神さまのいのちに結ばれて、一緒にいてくださるイエス・キリストのいのちに結ばれて、そのお方と一緒に目を覚まして、人の中におられる神さまのいのちに目を向けて生きるように、「神さまがあなたと共におられます」と祈る者になるように、ご一緒にその力と望みを願いたいと思います。