永遠の命の神さまと一緒に生きる
2016年4月17日 復活節第4主日
(典礼歴C年に合わせ3年前の説教の再録)
わたしは彼らに永遠の命を与える
ヨハネ10:27~30
今日は復活節第4主日を迎えています。毎年、「良い羊飼い」のたとえ話が読まれますので、「善き牧者の主日」と呼ばれます。そして、今日は「世界召命祈願の日」となっています。教会の奉仕のために働く者の召し出しを求めて祈ります。
イエスさまはご自分を「良い羊飼い」(ヨハネ10:11)にたとえておられます。そして、私たち羊を「命」に導いてくださいます。羊は羊飼いの声を知っているので、ついて行きます。そして、「良い羊飼い」は羊のために命を捨てます。狼が襲ってくるのを見ても、逃げずに守ります。
今日の福音で「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」という言葉を読みました(27節)。
私自身は実際に羊飼いが羊を導く現場を目にしたことがありませんが、テレビなどの映像で、数百匹の羊の群れを羊飼いが導く、あるいは後ろから追う様子を見たことがあります。みんな一緒の向きで歩いていきます。彼らが親密に、一緒に行動するありさまを思いながら、今日の福音に耳を傾けたらよいと思います。
さて、「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」のは、「わたしの父が(羊たちを)わたしにくださった」からです。
そしてイエスさまは、「わたしは彼らに永遠の命を与える」と言われます(28節)。ご自分が「永遠の命」を持っておられるからです。
「永遠の命」とは、父である神さまのことです。「永遠の命を持つ」とは、父である神さまと一緒に生きることです。「わたしと父とは一つである」(30節)と言われるほどに、イエスさまは父である神さまと一緒に生きておられました。それゆえ、「永遠の命」を持っておられるのです。
そのお方と一緒の向きで生きる羊は、同じく「永遠の命」を持つことになります。それが「わたしは彼らに永遠の命を与える」という言葉の意味です。「永遠の命」を与えることのできるイエスさまと私たちが一緒の向きで生きる時、「永遠の命」を持つことになります。
今日の福音の後半にこういう言葉がありました。「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり」(29節)。今日の福音の文脈で考えると、それは「わたしの羊」ということです。ですから、それは私たちのことを指しています。
父がイエスさまに与えてくださった「羊」すなわち「私たち」が「すべてのものより偉大である」というのはどういうことでしょうか。それは、最も偉大な方である父である神さまが私たち一人ひとりにご自分の「命」の全部を注いでおられるからです。私たちの頭のてっぺんから爪先(つまさき)まで、神さまはご自分の「命」を注がれました。だから、私たちは神さまのものです。
「だれも父の手から奪うことはできない」。それは、イエスさまと父である神とが一つであるように、私たちも一つになるからです。
「永遠の命」の父である神さまとイエスさまは一緒の向きで生きておられます。そのイエスさまと一緒の向きで生きる時、私たちは「永遠の命」を受けることになります。今日、そういう招きを受けています。
では、私たちは具体的にどう生きたらよいのでしょうか。
イエスさまは「インマヌエル」というお方でした。ヘブライ語で「神が我々と共におられる」という意味です。イエスさまは、ご自分の中にも父である神さまが一緒に生き、また目の前にいる人一人ひとりの中にも父である神さまが一緒に生きておられることを見て生きてくださった方です。だから、私たちもそのお方と一緒に、今日出会う人の中に神さまが共にいてくださることを認めて生きることが、イエスさまと一緒に生きるということの根本だと思うのです。
そのことをイエスさまと一緒に告げることを自分の歩み方にすると決めて生きる道が、司祭職という道です。誰に何を言われようが、人間の中にあるのは神の「命」なのだと告げる。そう告げて生きてくださったイエスさまと共に告げる歩みを歩んでいいのです。
私は日々何をしているかといったら、「神さまがあなたと共におられます」しか言わないのですね(笑)。しかし、そのことに生涯のすべてをおいて従う。そういう道に本当に誠意をもって進む者が現れるように祈ることを、「召命のために祈る」という言い方をします。
ご一緒にお祈りをしましょう。教会の奉仕のために働く。自分の身を養うためではなくて、教会を養うために生きる歩みを、神さまの支えの中で歩ませていただこうという人が一人でも多く現れて、教会の支えの中で歩んでいくことができますように。召命祈願日にあたってご一緒にお祈りをしましょう。