「骨折り損のくたびれもうけ」という幸いな道
2016年1月10日 主の洗礼
(典礼歴C年に合わせ3年前の説教の再録)
あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者
ルカ3:15~16、21~22
今日は「主の洗礼」の祝日を迎えています。イエス・キリストの洗礼のお祝いです。そこで今日は、イエスさまの洗礼という出来事が読まれました。
イエスさまが洗礼を受けたのは30歳くらいのことだったとルカ福音書に書いてあります。イエスさまのご生涯の中で「洗礼」がとても大きな一つの転換点であったことは確かです。なぜなら、洗礼をきっかけとして、人々の前に「救いのわざ」を現す者となっていかれたからです。
ところで、今年、成人を迎える方がここに8人いらっしゃいます。何年か前に成人式を迎えられた方も大勢いらっしゃる(笑)。
今年、成人を迎える皆さんにお聞きします。「救い」とは何でしょうか(説教台から降り、成人たちの席の前に来て)。いきなりそんな問いを投げかけられて、しかも近づいてこられても困るなあ(笑)と思われるかもしれませんが、どうですか。「救いというのはこういうことじゃないかな」という考えがある人がいますか。
(新成人の一人が手を挙げて、「誰かにとっての他者になることですか」と答えると)
そうです。神さまは私たちの「他者」、私たちと一緒に生きる者になってくださいました。
「救い」とは、誰かと一緒に生きるいのちになることと言っていいかもしれません。そして、イエスさまは神さまと一緒に生き、私たちと一緒に生きてくださる「救い」そのものです。
そして、「洗礼」という恵みを通して、「救い」そのものであるイエスさまの霊といのちが注がれ、イエスさまが私たちと共に生きてくださるので、そのイエスさまを通して、イエスさまと一緒に私たちも「救い」にあずかるのです。
今年、成人を迎え、洗礼という恵みをいただいている皆さんの中に、イエスさまが共におられます。だから、そのお方と一緒に生きることが、私たちの「救い」だと思うのです。
私たちが一緒に生きるイエスさまは、「仕えられるためではなく仕えるために来た方」(マルコ10:45参照)です。これは覚えておいたらいいことだと思います。
私は東京・江東区のカトリック本所教会という下町の教会で育ったんですが、そこに下山正義(しもやま・まさよし)という、私と49歳違いの主任神父さまがいて、その神父さまは本所教会に42年間もいたんですよ。私の両親の結婚式もそこでして、子どもが5人生まれて、それぞれに洗礼を授け、その中の一人が私ですが、私が就職してもまだその教会にいるっていう、そんな神父さまでした。
私は大学を出て、千葉県の公立小学校で9年間働いていたんですが、その後、神父になることになりました。何でなったかというと、下山神父さまが「圭三、おまえ、神父になれ」と言ったからです。言われなければ絶対ならなかったと思います(笑)。
何年か考えて、「いいことだったら、するべきだ」というくらいの考えで、教員をやめ、6年間、神父になるための神学校に入ることになりました。
春休みだったか、夏休みだったか忘れてしまったのですが、神学校がお休みになった時、本所教会の下山神父さまの司祭館を訪ねました。夕食時だったので、神父さまは食堂でテーブルの上に足をのせてテレビを見ていました。私ともう一人の神学生も一緒でした。
その時、テレビではクイズ番組をやっていたのです。「サルも木から?」、「落ちる」とか、「石の上にも?」、「3年」という単純なクイズだったのですが、「骨折り損の?」、「くたびれもうけ」という問題のとき、下山神父さまは「カトリックの神父みたいじゃねえの、ワッハッハ」と笑ったのです。神学生二人を前にして(笑)。
それを聞いた時、「ああ、この道でいいんだな」と思いました。なんでそう思ったか、その時はよく分からなかったのですが、「ああ、いいんだな」と思いました。
今はこう思います。「この世のことがすべて」というまなざしで見たら「骨折り損のくたびれもうけ」でも、そして、この世がいくら「くたびれもうけ」に満ちていても、それにもかかわらず「神さまが一緒に生きてくださる」というのは、「ワッハッハ」と笑って歩むような道なんだ。そういうことを下山神父さまの存在が伝えていたから、「ああ、これでいいんだな」と思ったのでしょう。
「仕えられるためではなく仕えるために」というイエスさまの言葉を先ほど申し上げたのですが、私たち一人ひとりの歩みに何かしらそんなものが現れたらいいんじゃないでしょうか。
成人を迎えた皆さんが将来どんな道で歩んでいくのか分かりません。でも、「神さまが一緒にいてくださる」という真実に結ばれて、幸いに生きていくようにとの招きを受けています。
このあと成人の祝福に入りますので、ご一緒にお祈りください。